
まずは木地づくりから
学生による 漆芸授業レポート(3)
(3)_「下手物(げてもの)の中に ひそむ美」
惚れ惚れする先生の技
〈刳る〉
切り出した板に “墨付け(下描き)” をしたら、
いよいよノミを入れていきます。
刳る作業をするときは、座布団を敷いて、
板が動かないように足で抑えながら作業します。
先生は裸足ですが、
木やノミが刺さったら危ないので
さすがに、私たちは靴下または足袋を履きました。
座布団が低かったら
木っ端を下にひいて高さを調節します。
ここで、木っ端の有効活用!
捨ててしまうはずだった木っ端が、
このような場面で活躍するとは、驚きです。
▲先生の技に
見ている私たちも惚れ惚れしてしまいます。
先生方はこのお仕事だけで食べている方々なので
このお仕事に命をかけています。
そんな姿に、思わず美しいと思ってしまいました。
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椿昇先生のコメント
贅沢とはこの事!
ネットでなんでも教えてもらえる時代だけどね・・
神業の横にいるという圧倒的な情報量は
液晶画面には降臨しないよ!
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ひたすら先生の姿に憧れて欲しいね。
そして退路を断ってものつくりの道へ「いざ!」。
未来に計算や根拠は求めないように。
目先を考えず飛び込んで
気がつけば10年というのが正しい選択と僕は思う。
トレンドを追いかけて就職しても
数年後には退社では元も子もない。
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最初は
外から内に向かって刳っていきます。
左手でノミを持ち、右手にプラスチックハンマーを持ち、
そして、
プラスチックハンマーでのみを叩いて
削っていきます。
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椿昇先生のコメント
新しい道具も大切。
要は二項対立ではなく「調和」させる柔軟性が重要だね。
深さは、自分で決めた深さ+5mm。
薄くなったり、抜けてしまったら
お盆として使えなくなってしまうので、
“トンボ” という深さを測る道具を使いながら刳ります。
気づいたら深くなってたりすることがあるので。
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椿昇先生のコメント
そういえばグランド整備のときにも
「トンボ」というスキージーのデカイの使ってました。
トンボって言葉には不思議な響きがありますね。
またここで、向きに注意しなければいけません。
木目が縦のところを正面にします。
深くなりすぎないように、
もう刳らなくていいところにはバツ印をつけます。
先生は、何度も
「深くなりすぎないように注意してな」と
言ってくださったのですが、
案の定削りすぎる子もちらほら。
中には、勢い余ってふちの一部を
吹き飛ばしてしまった子も。
(その中の一人は私)
勢いがあるのは良いことですが
何事も加減が必要ですね。
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椿昇先生のコメント
「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し」
『論語・先進』 にある、
孔子が二人の門人子張(師)と子夏(商)を比較して
言った言葉からの出典です。
「水準を越した師も水準に達しない商も、
ともに満足じゃない。人の言行には中庸が大切である」と
説いたという故事から来てます。
基礎美術の学生は是非論語も読んでみよう、
中国や韓国との繋がりなしに
日本文化は語れないので。
でも「中庸」ってほんと感覚的すぎるよね〜
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「掃除に始まり、掃除に終わる」
この作業は刃物を扱うので
とても集中力がいります。
教室には、あまり私語は聞こえません。
聴こえるのはノミを叩く音。
時々先生が話してくださるので、その時くらい。
なので授業が終わると、みんなくたくたです。
手仕事は体力が必要だと、痛感させられます。
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椿昇先生のコメント
くたくたになる幸福!得難し!
でも疲れるのは慣れてなくて変な筋肉使うから。
慣れると体が自然に動いて何の疲れも残らない。
達人になるとエネルギーロスが無くなるんだよ。
終わった後は、みんな自主的に掃除を始めます。
木屑がたくさん出るので、それをほうきで掃き、
袋にまとめます。
自分の場所だけじゃなく、他の人のところも掃きます。
基本、作業をしているときは一人だけど
こういうときは協力するのが基礎美術コースの学生。
「掃除に始まり、掃除に終わる」
これはどこに行っても、続けていきたいことです。
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椿昇先生のコメント
禅の奥義は「掃除」です。
掃除に脳と身体の高度なマッチングを促す効果があります。
科学的なんですよね、日本の智慧は。
僕は心病んだとき「開梱作業」で吹っ切れました。
黙々と手を動かし舞うのがこのコース。
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“下手物(げてもの)の美”
先生が教えてくださった、我谷盆を調べた時
「すべすべじゃなくて、刳りあとが残っているのに
どうしてこんなに美しく感じるのだろう」
と思いました。
すると新宮先生は、
「『下手物の美』っちゅうもんがあんねん。
なんかしてやろうと思わんと、
このままでやったらええんちゃう。 ええもんできると思うで。」
この言葉で、私は我谷半月盆を作ろうと決めました。
“下手物” とは、 つくりが粗く価格も安い大衆的な日用品のこと。
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椿昇先生のコメント
グローバル・マーケットで
価格だけが冒頭する一部のアートの次に
この世界が必ずやって来ます。
「下手物」に美を見出すのは東洋哲学の真髄。
「作は無慾(むよく)である。
仕えるためであって 名を成すためではない。
(中略) 雑器の美は無心の美である。」
(柳宗悦『雑器の美』より)
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椿昇先生のコメント
無心で刳る盆が単なる課題ではなく、
君たちの「志」 のターニングポイントになってくれればと・・
何かの皮を被っているものや、
自分しか愛せない人に人はあまり感動しないし、
逆にあざといと感じてしまうことが多いと思います。
我谷盆は、いわゆる “下手物” に入ります。
我谷盆が作られていた我谷村は小さい村で、
あまり刃物を砥ぐような技術もなかったそうです。
ノミ1本でつくられた、
精一杯平らに彫られたノミ跡。
その素朴さに、私は魅力を感じたのだろうと思います。
限られた資源や恵まれない環境が
素晴らしい「無心」 を生んできました。
他の事例も調べてみよう。
完璧に無欲というのは無理ですが
(逃れようのない凡庸な人間の性なので)
もっと個性を出した方がいいかなとか思わず、
“適当(それにあたいしている)” にすれば 案外、
良いものが作れるかもしれません。
“適当” というのもまた難しいものですが。
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椿昇先生のコメント
仙人になるしかない(笑)
テキトー続けるにはありあまる余裕が必要。
2018.12.01更新
つづく