温新知故
#15


感動の勘所

京都のアートやクリエイティブ活動の最新事情を訪ねてみると、その奥には必ず伝統という財産が豊かに広がっていたりする。
いわゆる「古きを訪ね新しきを知る」という視点からではなく、むしろその逆、新しいものの向こう側にこそ垣間見えてくる京都の先人たちの、技や知恵。

この対談シリーズでは、若い職人さんやアーティスト伝統文化の世界ではない人からの視点も交えた異色の対談集というかたちで京都の伝統文化に新しい光を当ててみたい。

野中智史
以前、ビオラ、バイオリン、コントラバスの人と一緒に演奏させてもらったことがあるんですけど、ぼくにはぼくの「ココ!」っていう勘所があるんですけど、西洋音楽の12音階で洋楽器使うてはる人らからしたら、和楽器とは勘所がちょっとずつ違ってるんですね。
自分の勘所で弾こうとすると、開放弦が気持ち悪いっていうのがあって「ああ、クラシックの人とは無理やな」と。
求められるものが違いすぎました。

岸田繁
違いますよね。
アイリッシュとかスコットランドとか民謡系の人とかやったら、もしかしたらやりやすいかもしれないけれど、5音階の人と12音階の人ではやっぱり…。

野中智史
はい。難しかったですね。
それやったらまだ北大路の飲み屋で会った、フラメンコギターのおっちゃんのほうが、音に縛られてなくて自由に弾けたので、ぜんぜんやりやすかったですね(笑)

岸田繁
あぁ、アメリカヤ(京都・北大路にある楽器店)とかにいるおっちゃん(笑)

野中智史
知ったはるんですね(笑)。
そのときぼくたまたま三味線持ってて。
おっちゃんが「なんやそれ?楽器か?」っていう会話から始まって。
ギター弾きながら「ちょっと待って、いける!いけるかも!」とか言うからぼくも「大丈夫ですか!ぼく適当にあわせますんで!」とかいいもって(笑)

岸田繁
さっき野中さんが勘所の話されましたけど、シンプルな楽器やと応用が利いたりする場合ってあるし、ジャンルが違っててもギターで作ってる音楽やとわりといい感じに混じりやすかったりします。
あとぼくらはたまにバンジョー使ったり、シタール使ったりもしますけど、いちばん難しいなぁって思うのが「現代クラシックに和楽器」っていう組み合わせ。
これはみんな必死こいていろいろやってはりますけど、難易度が高いんやろうなぁっていうのは感じますね。

野中智史
ぼくもそれわかります。
いつも感じるのは、たとえばかんたんな洋楽とかJ-POPを三味線で弾くと、弾けることは弾けるんですけど、毎回チンケになるのはなんでやろなぁと。

岸田繁
なんかありますよね。

野中智史
なに弾いてもコミックソングっぽくなってしまうんですよね。

岸田繁
そういう風に聴こえるんでしょうね。なんででしょうね。

野中智史
逆にむかしの古い映画見てたら、美空ひばりさんが木曽節をミュージカル風に歌ってはったりするんですけど、洋楽の感じもありつつ、太鼓と三味線の音も入ってたりする。
ああいうアレンジは民謡調のものだし木曽節だからできるんちゃうかなと思ったりもしますけど、でもすごくいいですよね。

岸田繁
まあ、あとたぶん美空ひばりさんの当時の音とか聞くと歌がフラットしてたりするんですね。
歌がバックの演奏とぴったり合っていない。
そこが自然な調律なんじゃないでしょうかね。
いまのJ-POPとか聞くとぴったり12音階にきちっと調律されてしまってて、ちょっと楽器には負担が大きいのかなと思いますね。

──それは録音のやり方とかの変化もあるんですか?

岸田繁
それもあると思います。
録音技術のほうでいまはほとんど合わせられちゃうので。
だけど、たとえば宇多田ヒカルさんの曲を聴いてたらちょっと低いんですよ。微妙にフラットしてる。
逆に甲本ヒロトさんはシャープしてる。
そういう、その人の録りかたや個性というか、音楽の様式によってちょっとここが高いとか低いとかがほんまはあるんですよ。
それをいまはみんな12音にピッタリ合わせてしまうから、そもそもチンケに聞こえてしまうようにできあがってしまっているのかなっていう話をよく仲間内でするんです。
「いまはみんな合わせすぎやね」って。

たとえば何年か前に渋谷のセンター街を歩いているとき、大音量で音楽がかかっていました。
最近の音楽に混じってちょっと前の懐かしい歌が流れてきたんですけど、わずかに音程やピッチが揺らいだりしているんです。
で、それがそのときの自分にはなぜかヘタに聴こえたというか、違和感があったんです。
リアルタイムで聴いてたときにはそんなこと感じてなかったはずなのに。
でもそのヘタに聴こえてる歌のほうが、なぜかぼくの心を強く打つ。
だからすぐそれは決してヘタなわけではないのだということに気づくんです。
そのあとまた最近のJ-POPに音楽が変わるんですけど、そっちは耳にスーッと入ってきてスーッとどっかへ消えていってしまう感じ。
まったく残らない、心に響かない。
やっぱり耳に残るのは音程もピッチも
揺らいでるむかしの歌のほうやったりするんです。

野中智史
あぁ、耳残りという意味ではそういうことありますよね。
しかもいろんな音が流れている商店街のところですもんね。

岸田繁
やっぱりキレイに調律されてるっちゅうことと、そうやなかった時代の、いまはもうノスタルジーになってしまってますけど「なにかが消えたな」みたいなことはすごく感じましたね。

──ぼくも思いますけどノスタルジーだけじゃないんですよね。絶対に。なにかがあるんでしょうね。

岸田繁
平準化されたといったらそうなんでしょうね。
まあそれでええ部分もあるんでしょうけど、いろいろ作業がラクになったりとか。
でも、もともとは平準化された音よりもちょっと起伏がある音楽のほうが好きだったはずの自分が、ちょっと揺らいでる音楽を聴いたときヘタに聴こえてしまってるという感覚に衝撃を受けて「ああ、いまはもうオレの耳もそういう平準化に慣れてしまってたんやな」って思いましたねえ。

──耳って結構すぐ慣れるっていうか、囚われやすい器官って言いますもんね。

岸田繁
そうですよね。
ゴキブリだらけの家に住んでた時は一匹出たとてなんとも思わへんかったけど、いったんキレイな家に住んだらゴキブリが出たらすごいショックみたいな。

──耳って慣れやすいんですよね。そういう意味では、この生楽器と生歌っていうことの意味も、けっこう考えてしまいますよね。

岸田繁
やっぱりこういう楽器(三味線)の魅力っていうのはたとえばフレットがないとか、実際にちょっとしたニュアンスで、ダイナミクスなんかもとても豊かに出ます。
ぱっと聴いただけでもハッと感動する感じっていうのは、野中さんの腕が良いのもあるんでしょうけど、そういうことができる楽器やったりするってことなんやと思いますね。
シンセサイザー押してヒョーンとなっても曲が良ければ感動はしますけど。
でもやっぱりシンセはあくまで便利な楽器なんですよ。
いい意味でも悪い意味でも。

──むかしテレビで見たのですけどYMOがデビューした当初、コンピューターであえてリズムの揺らぎを研究して、沖縄音楽はこのタイミング、ニューオリンズジャズのタイミングはこのくらいっていうのを作っていたという話がありました。
でも、逆にいうとさっきも「勘所」みたいな話がありましたけど、いままでそれは人間が自然にやっていたことですよね。
その揺らぎやダイナミクスをコンピューターで作り出すことができるという意味ではシンセサイザーは便利な機械ではあるんですけど、逆にいえば苦労してプログラミングなんかしなくても「その人が弾けばその人のノリが出る」というのはアナログ的な良さですよね。
しかもそれは楽器や音楽だけの話ではなく、いわゆる伝統文化の良さの1つでもあると思うんです。

岸田繁
そうですね。
ぼくらもコンピューターで作業することが多いんですけど、わざと揺れを作ってみたりとか、わざと崩してみたりとかっていうのはけっこうやっています。
それは、ある意味ではラーメン博物館にある「昭和33年“風”の街並み」みたいなことなのかなと。
それはそれで「再現」するということの価値はあると思うんですけど、そんなことせんでもラッキーなことにむかしそのまま残ってる本物がここにこうしてあるっていうこと、野中さんみたいに若い職人さんがいまもここでこうして伝統音楽の楽器を作られていたり演奏されていたりするっていうのは、本当にありがたいことなんじゃないかと思いますね。



温新知故
#15
野中智史×岸田繁

文:
松島直哉

撮影:
平居 紗季

岸田繁オフィシャルサイト
https://shigerukishida.com

くるりオフィシャルサイト
http://www.quruli.net

温新知故
#15


感動の勘所

京都のアートやクリエイティブ活動の最新事情を訪ねてみると、その奥には必ず伝統という財産が豊かに広がっていたりする。
いわゆる「古きを訪ね新しきを知る」という視点からではなく、むしろその逆、新しいものの向こう側にこそ垣間見えてくる京都の先人たちの、技や知恵。

この対談シリーズでは、若い職人さんやアーティスト伝統文化の世界ではない人からの視点も交えた異色の対談集というかたちで京都の伝統文化に新しい光を当ててみたい。