京都のスープ
#12


緑寿庵清水

「金平糖は、私どもの全てです。この家に代々伝わることですけれど、『金平糖で笑って、金平糖で泣いて、金平糖とともに生きてきたんやなぁ。』と。朝から晩まで金平糖のことばかり考えてやってきました。」
緑寿庵清水 5代目若女将でいらっしゃる、清水珠代さんにお話を伺いました。

一生をかけて作り続けた金平糖

京都は左京区百万遍。甘い匂いを辿っていくと、広い通りから少し外れたところに京都で製造販売する唯一の金平糖専門店 緑寿庵清水はあります。

緑寿庵清水は1847年(弘化4年)に、初代の清水仙吉さんが創業されました。

金平糖は、江戸時代にポルトガルから南蛮菓子の1つとして、カステラなどと一緒に日本に入ってきました。当時日本では、砂糖自体が高級で手に入らなかったこともあり上流階級の公家や武士たちしか食べることを許されていなかったそうです。

「初代が金平糖を京都にもってきて、たくさんの量を作ることに成功したのは2代目でした。2代目の頃は職人さんもたくさんいはったんですけど、戦争やなんやらで減っていきました。3代目が戦争にいかはった後、負傷して日本へ戻ることも困難なところ、京都に帰って来はって、それから83歳で亡くなるまで一生、ほぼ24時間この家の電灯が消えることはなかったっていうくらい、ずっと続けてはったんです。」

千利休は、野点(野外で行う茶席)を行う際、茶菓子としていつも金平糖を持ち運んでいたという説も。

当時、夜の遅い時間に家の明かりがつくことは恥ずかしいこととされていました。

「ご近所さんに嫌なこと思われへんように、砂糖が入ってる分厚いフクロを窓一面に貼って、家の明かりが漏れないように、隠れるように金平糖作ってはったんです。」

そこまでして残したいという強い想いがあったおかげで、金平糖というお菓子が現代の私たちにまで届いたのでしょう。

初代が使っていたとされる釡。当時は地下から無煙炭で熱を加え、完成までに約2ヶ月から2ヶ月半かかっていたそう。


「辛気くさい」お菓子

金平糖には、決まったレシピというものがありません。緑寿庵清水には大きな4台の釡があり、職人さんは毎日毎日、片時も釡から目を離さず、汗だくになりながら金平糖と向き合っておられるそうです。

奥:4代目 清水誠一さん(職人歴60年)/ 手前:5代目 清水泰博さん(職人歴25年)

3代目までは、砂糖味の金平糖しかなかったそうですが、4代目以降、もっとお客さんに喜んでいただけるようにと、味のついた金平糖を何年もかけて開発されました。今では季節に合わせて約85種類以上の味の金平糖を作っていらっしゃいます。

らいちの金平糖(9月限定)

焼き栗の金平糖(9月限定)

素材にこだわって作られている緑寿庵清水の金平糖は、時期によって作れる量が決まっているため量産ができません。したがって、生産が終了してしまったものは来年まで作ることができないのです。それでもお客さんの中には1年待ってでも、その味の金平糖が欲しいと言うお客さんもいらっしゃるといいます。

熟練の職人にしか作ることが難しい大変貴重な金平糖は、「究極の金平糖」と呼ばれています。

「職人にとって一番大事なのは “耳” なんですね。金平糖が釡から流れ落ちる音を聞くことなんです。その音が、まるで子供の声を聞くように『蜜が濃いよ、薄いよ、温度が高いよ低いよ』っていうのを職人に教えてくれはるんです。日数がかかる割には量ができひん、どんだけかけても大きくならへん。4代目がよう言ってはったんは、『ほんま*辛気くさいお菓子ですわ』と。でも、京都のような気性、根気よく続けていく、そういった性格があったからこそ、今まで続けてこれたんやろなぁ。」

*辛気くさい…京都弁で、自分の思い通りにならず、じれったいこと。

左から順に、核となるイラ粉(1日目)、約3日目でイガが徐々にでき始め、約8日目でほぼ均一にイガが出揃い、約14日目で、砂糖の金平糖の完成。素材を加えた金平糖を作るには、一種類に約16日~20日かかるそうです。

金平糖職人の世界には、“蜜かけ 10 年、コテ入れ 10 年” という言葉があり、一人前になるまで 20 年はかかる言われているそうです。

ここ京都という土地で作られ続けてきた金平糖は、京都の気候風土に合わせて作られているため、他の土地で作ろうと思っても同じものは作れないといいます。

そんな“辛気くさい” けれど愛したくなる緑寿庵清水の金平糖は、誰かと一緒に食べたくなる、優しい味をしています。


100年以上続いてきた理由

京都は古い街。ですが、世界から見たら新しい街だと珠代さんはおっしゃいます。

「金平糖は、私どもの全てです。この家に代々伝わることですけれど、『金平糖で笑って、金平糖で泣いて、金平糖とともに生きてきたんやなぁ。』と。朝から晩まで金平糖のことばかり考えてやってきました。」

約70年〜80年前に作られたという金平糖。ガラス瓶に入れられ、大切に保管されています。

「なんでも新しければいいとか、値段が高ければいいとかが、今は多いですけれども、昔ながらのものを引き継ぎつつ、それを新しい文化に変えていくのが私は好きで、そうすることによって時代が過ぎても、そこに生きている方々に受け入れられて、喜んでいただけると思っております。奥ゆかしく控えめに、細く長く、続けていきたいです。やっぱり本店ありきなので、皆さんがここに帰って来てくださるお店にしたいですね。」

「自分はアンカーでは無い。自分らさえ良ければいいとかで無くて、私たちは次の6番手にバトンを渡すために、日々走り続けなければならん。」
と、5代目の清水泰博さんはよくおっしゃるそうです。

京都で金平糖を作り続けて172年。
緑寿庵清水では、一子相伝で伝えられる製法は変えず、常に新しい味の金平糖を開発しておられます。

ポルトガルから日本に来た金平糖は、今やポルトガルにはありません。長崎から江戸、そして京都で根付き、日本の文化としての金平糖を守り続けている緑寿庵清水。

珠代さんの熱い目は、100年、200年先を見据えているように見えました。


京都のスープ
#12
緑寿庵清水

文・写真:
鈴木日奈恵(基礎美術コース)

アシスタント:
鈴木はな佳(ファッションデザインコース)

緑寿庵清水 HP:
http://www.konpeito.co.jp/

京都のスープ
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緑寿庵清水

「金平糖は、私どもの全てです。この家に代々伝わることですけれど、『金平糖で笑って、金平糖で泣いて、金平糖とともに生きてきたんやなぁ。』と。朝から晩まで金平糖のことばかり考えてやってきました。」
緑寿庵清水 5代目若女将でいらっしゃる、清水珠代さんにお話を伺いました。