“ほんまもん”と“ほんまもんでないもの”
──これまで色々なことに挑戦して、発見を増やしていったんですね。
間口広げすぎたね。よく人に屏風に例えられる。
屏風ってね、広げすぎたら立たんでしょ。間口広げすぎたら足元フラフラになってこけてしまう。
──移りゆく時代の中で、これからの唐長は、どうあるべきだとお考えですか。
変えないこと、変えること、両方に同じ時間をかける。
今までもこれからも変えないことは、“板木を使うこと、文様を誇りに思いこれまでと変えずに使うこと、作るスタイルを守ること”。
変えることは“時代によって、相手にする国によって、どういう感覚でやるか”。そこを意識してやらんと、物を作っただけになる。意識した上で、新しいことに挑戦するんやけど、その時に職人すぎたらダメ。
もっと時代を見ないと。細かく細かくというより、ふわっと感じることが大事。それは唐長の特徴にしたいと思っています。
今、京都は色んな物で溢れかえっていて「新しいものにまみれるのが嫌だ」と言う人もいる。
けど私はあえてまみれようとしている。それは冒険のようなことやけど、勇気が大事。「京都とさえ言っとけばいいや」となっている状況の淘汰のきっかけになればいいなと思う。唐長という歴史を続けないといけない。今の新しい波に負けていてはダメなんよね。
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“ほんまもんでないもの“が“ほんまもん”になる時代。
──千田さんは刺激を受けに行くんですね。
みんながみんな、刺激をくれるとは思ってないんやけど。
“ほんまもん” と “ほんまもんでない” という区別があやふやになっている。“ほんまもんでないもの” が“ほんまもん” になる時代なんです。
『俵屋の不思議』という本(村松友視 / 著、世界文化社、1999年)
があるんですけど、その中の余談で歌舞伎の道具の話があります。
(昔は和紙を細く切って小さく丸め、1回限りの蜘蛛の糸を作る職人がいた。便利になって、ポリエステルで簡単に作るようになった。客席から見たら、一見分からないが、なんとなく「昔の方が見応えあったんちゃうやろか」と、分かる)そんな風に全てが簡単になると、今の人にとって、その簡単が “ほんまもん”になるんです。
──唐長さんは、絵の具を作る・紙を染める・摺るという全ての工程を手で作業されていますが、唐長さんにとって手仕事の面白さや難しさはなんですか?
唐長は、文様をつけて終わりではなく、繋げて壁に貼ったり、手仕事ゆえの不揃いが出て難しい。精度の高いものでも。繰り返し仕事の中で、色もブレたらあかんし、シンプルであるが故に難しい。
シンプルなものはかえって目立つから。
それと同時に面白さは、唐長は技術的なマスターだけではダメってこと。美的センスや感性が必要。それが作る物に反映されないとダメ。精度の高い技術はベースとして必要なんやけど、プラス感性が必要やね。
理屈やなくて、数値やなくて、人間の1 番肝心なところ。心やね。人がハッとするもんを作って提供せな意味がない。
──感性を養うのに、どういうことを心がけられていますか。
仕事しない時間を大事にしています。
喫茶店行ったり、お散歩したり、ふわっとした時間をね。楽しいことをやらんとあかんわ。
唐紙の仕事は、覚えるんは実際1年もかからんと思うねん。手仕事で大事なんは技術だけじゃない。あとは感覚、心の積み重ねやと思う。その点、今の若い人は、感性を大事にしているように感じます。
音楽のコンサートとか素直に感動してるやん。今の人の方が素直やなぁと思う。ものづくりする人はそうでないとあかんと思う。
美的なものをものすごく求めることが、ものづくりをする上で大事。
機械はきちっとしたものができるけど感じることはできない。ということは手で感じることを機械は分からない。機械と手作りではハートが全く違うんやから、手でやるものづくりはもっと素直にハートを出さなあかんと思う。
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職人interview
#13
唐紙屋 唐長
千田堅吉
文:
溝辺千花(空間デザインコース)
唐紙屋 唐長HP:
https://kirakaracho.jp/
中国の唐から伝来し、400年変わることなく守り続けられた日本独自の文様。全て手摺りで、時代のライフスタイルに合わせ形が変わります。芸術には、理屈や数値では表すことのできない心が必要だと教えてくださいました。