温新知故
#03


「継ぐ」~冨田工藝の場合〜

京都のアートやクリエイティブ活動の最新事情を訪ねてみると、その奥には必ず伝統という財産が豊かに広がっていたりする。
いわゆる「古きを訪ね新しきを知る」という視点からではなく、むしろその逆、新しいものの向こう側にこそ垣間見えてくる京都の先人たちの、技や知恵。

この対談シリーズでは、若い職人さんやアーティスト伝統文化の世界ではない人からの視点も交えた異色の対談集というかたちで京都の伝統文化に新しい光を当ててみたい。

──兄弟でいえば継ぐのもやはり兄が先に継ぐことになると思うのですが。

冨田珠雲(兄)
うちはね、長男とぼくと弟が全員同時やったんですよ。

小嶋諒(弟)
えー!マジですか?

冨田睦海(弟)
そうそう。変わってるでしょ?

冨田珠雲(兄)
ちょうど長男が18歳になった時でした。
長男が大学進学するのかもう社会に出るのかみたいな時期で、親父が夏休みに3人に集合かけよったんです。
みんな2つずつ違うんで、長男が18歳でぼくが16弟が14歳なんですよね。
で、いきなり親父がうちのおじいさんの彫刻刀を出して来て、それぞれ一本ずつ手渡して「夏休みにこれでお地蔵さん彫れ」って言うんです。

冨田睦海(弟)
「は?」ってなりますよね。

冨田珠雲(兄)
一応、父親が見本を作ってくれて、それを三人が真似て作るという、わが家だけの宿題が与えられたんです。

冨田睦海(弟)
ある意味、それが職人のスタートでしたね。

小嶋俊(兄)
なんかジャッキーチェンの映画みたいですやん。

(一同爆笑)

小嶋諒(弟)
うちはそんなカッコええエピソードなかったな(笑)

冨田珠雲(兄)
まあ父親にしたらほんまはそこで兄に継がしたかったんでしょうけどね。

冨田睦海(弟)
ぼくなんかまだ中学生ですから意味もなんもわからずやってたんです。

冨田珠雲(兄):だから刃物持ったのは三人一緒、その時やったんです。

小嶋俊(兄):へえ、そうなんですね。

冨田睦海(弟)
もちろんそれまで誰も刃物にさわったこともなかったですし、継ぐどころかやりたいとも思ってなかったですからね。

冨田珠雲(兄)
でもね、やっぱり血なんでしょうね。刃物を持って、木を掘った瞬間に「できる!」と思ったんです。

小嶋諒(弟):そうなんですか?

冨田珠雲(兄)
それまで野球やったりクラブ活動やったりした時とは明らかに違う感覚があった。
これはできるぞ!という感じ。手応えというんですかね?
もちろんまだ実際には何もできないんですけど「できる」という感覚だけが突然パッとひらめいたんですよ。

小嶋俊(兄)
ああ、でもなんかわかるかも。

冨田珠雲(兄)
そこから親父に「これどうしたらいい?」って聞くでしょ。
親父が「刃物を研げ」って答える。
でも刃物も研げない。
「じゃあこうやれ」と研ぎを教わる、みたいな感じでひとつひとつ教えてもらうようになっていくんです。

──当時まだ中学生の睦海さんも、その時すでに「継ごう」という決意はあったんですか?

冨田珠雲(兄)
おお!これは俺も初めて聞くなあ。

冨田睦海(弟)
正直にいうとぼくはあんまりよく覚えてないんです。
その時はさっきも言ったようにまだわかってなかったんですよ。
ただ夏休みに父親の機械場とか木工機やらの掃除をしていたことはすごくよく覚えています。
「お父さんが機械場の掃除せえゆうてはんで」って呼ばれて。
でもその掃除をすると全身真っ白になるんですね。
鼻の穴にも木屑が入るし、でそれがすごくイヤだったの覚えてます。
だから職を継ごうという意識はなかったですね。
ただ家の手伝いをしてるような感覚やったと思います。

小嶋俊(兄)
そこはうちらとまったく一緒ですね。

冨田珠雲(兄)
おまえ、そういうたら、
むかし親父にものすごく怒られたことあったよな?

冨田睦海(弟)
あー、あったあった。
その機械場には木の板がいっぱい置いてあったんです。
木は乾燥させないといけないですから、長いことずっと積んで置いてあるんですよ。
で、いっぺん小学校の頃に友だちと秘密基地を作ろうということになって「ちょうどうちに要らん木がいっぱいあるで」と友だちに言うて、父親に黙って木の板を勝手に持ち出したことがあったんですよね。

(一同爆笑)

小嶋諒(弟)
それ、ヤバいやつやないですか!

冨田睦海(弟)
めっちゃくちゃ怒られましたよ。

小嶋俊(兄)
でもオレらもそういうのあったなあ。

冨田珠雲(兄)
よく考えたらぼくらって、一族全員がこういう職人の集まりなんですよ。
おじさんが蒔絵師やったりとか。

冨田睦海(弟)
そうそう、だから家に帰るとみんな何かしらそういう職人仕事をしてはったんですよ。

冨田珠雲(兄)
うちのおじいさんも昭和前期に仏師のところに修行に行ってたそうです。
その頃はいわゆる廃仏毀釈の時代で「仏像は潰しなさい」という時代だったので仏像の仕事なんかあるわけがないと。
どっちかゆうと「消えゆく職業」として京都新聞に載ったくらい廃れていた職業やったんです。

小嶋俊(兄)
ああ、そうやったんですね。

冨田珠雲(兄)
もうとにかく仕事がないので仏さんを彫る技術を使って、お位牌を作ったり字を彫ったり仏具作ったり、そうやって繋いでいってたそうなんです。
だから親父から初めに言われたのは「木と刃物で生きていけ」と言うことでした。
なんでもいいんだと。
木と刃物で好きなことをしろ、と。
ただし残るもんつくりなさいと言われましたね。
それが16歳の時でした。

冨田睦海(弟)
それについてはひとつ思うことがあるんです。
いま学校なんかの若い子に「職人やりませんか?」っていうと、仏像はやりたいっていう子はいるんですけど、お位牌はあまり反応がないんです。
でもじつはお位牌もご本尊なんです。
仏像がお寺の本尊で、お位牌は個人のご本尊なんです。
なので、作っているぼくらからしたら、どっちがうまいとかどっちが偉いとかいう気はまったくありません。
でもやっぱり「仏像を彫りたい」という子のほうが多い。
ただ100年前は仏師なんていうのは食べてもいけない仕事だったし、それをお祖父さんもお父さんもよく知ってるので、「とにかく木と刃物で、人が手を合わせるものをつくりなさい」と。
それがぼくらが最初に言われたことやったんですよ。



温新知故
#03
小嶋商店×冨田工藝

文:
松島直哉

撮影:
福森クニヒロ

小嶋商店 HP:
http://kojima-shouten.jp/

冨田工藝 HP:
http://www.tomita-k.jp/

温新知故
#03


「継ぐ」~冨田工藝の場合〜

京都のアートやクリエイティブ活動の最新事情を訪ねてみると、その奥には必ず伝統という財産が豊かに広がっていたりする。
いわゆる「古きを訪ね新しきを知る」という視点からではなく、むしろその逆、新しいものの向こう側にこそ垣間見えてくる京都の先人たちの、技や知恵。

この対談シリーズでは、若い職人さんやアーティスト伝統文化の世界ではない人からの視点も交えた異色の対談集というかたちで京都の伝統文化に新しい光を当ててみたい。