──さて、SHOWKOさんは1980年、京都生まれ。いわゆる老舗の窯元の家にお産まれで、ずっと京都で活動して来られた。逆に望月さんは1978年、横浜のお生まれで子どもの頃は絵画教室に通っていらした。そこから切り絵作家として活動されるようになって、2013年に京都に来られる。プロフィールを見ていると、ある意味で対照的な軌跡を歩んで来られたのかなと思いました。
SHOWKO:
そうですね。
望月めぐみ:
似てるところもあるんですけどね。
──そのあたり、まずSHOWKOさんにお伺いします。SHOWKOさんは京都の窯元の家で生まれ育ったということで、子どものころからザ・京都な生活をされていたのかなと思うのですが?
SHOWKO:
そうですね。それはすごくありましたね。やはりうちは茶道具をつくる家だったのでお茶室がありました。いろんなお客さんを呼んでお茶会なんていうことも日常的にありましたし、京都の文化に近いところで育ったかなというのはあります。
──そうですよね。そのいっぽうで、女性だからという理由で制作の現場には近づけないというのもあったんですよね。
SHOWKO:
ありましたね。職人さんの職場がうちの母屋の地下にあったんですけど、うちの母の時代は女性が職場に入ることは禁止されていたらしいんです。家を継ぐのも兄と決まっていましたし、当然わたしは稼業に携わる選択肢はありませんでした。男社会といいますか「男子がやっていかなきゃならない」というしきたりが、ヨソよりは強くある家だったのかなと思いますね。
──そういうことに対する疑問や反発はありましたか?
SHOWKO:
最初はわからなかったんです。子どもって、なにかきっかけがないと他の人と比べたりとかしないもので、それまでは本当に「親がそう言ってるんやから、こういうもんなんや」と、それこそ素直に環境を受け入れていたんですね。でも徐々になんとなく、うちは他のサラリーマンされてるお家とは環境が違うなあ、と気づきはじめて(笑)。
望月めぐみ:気づくよね。
SHOWKO:
そうね。かたや兄は後継ぎとして決められたレールの上にいる。いっぽうでわたしはこのレールを進むことは許されない。だとしたら、いったいどこに行けばいいんだろう、と。一見すごく自由ではあるんですけど、かといってやっぱりそういう家の娘なので、どこでどんな仕事をしてもいいというわけでもなかったのでね。
──家業には入れないけれども、家柄にふさわしくない道にも進めない。
SHOWKO:
ええ。だからそういう見えない鎖みたいなものを感じつつ、10代になって思春期を迎えるころは、将来の目標や夢というものを自分自身で決められないので、なにをしたらいいんだろうともがいていましたね。
望月めぐみ:
わー、それはけっこう辛い状況だね。
SHOWKO:
そうですね。いま思うと、もしかしたら勝手に自分でつくった鎖だったのかもしれないんですけど、なんとなく完璧な自由ではないという思いはありましたね。
──それは具体的になにか直接的に言われたわけではなく、SHOWKOさんがなんとなく感じていたということですよね。
SHOWKO:
そうです。まあこうなってほしいみたいな親からの期待も、ちょこちょこ言葉に出てきたりはしていましたけどね。それを受けて「わたしはこの期待に沿っていけるんだろうか?」とか「親がこう思っているのは、なにをわたしに求めているんだろう?」と考えていました。
でも、それに反発するという気持ちではなくね。子どもって素直に親を喜ばしたいっていうのが根底にあるんです。なので、そういう期待と自分との狭間ですごく悩んでいたと思います。
──いつごろからそういうことを感じはじめていたんですか?
SHOWKO:
うーん、そうですねえ、それはわたしが中学受験をしたことと関係があるんです。わたしには従兄弟がいるんですけど、従兄弟のお兄ちゃん2人と兄と私で4人兄妹みたいな環境で育ったんですね。
それで、その4人兄妹のなかで、わたしは「器用で頭のいい子」という存在だったらしいんです。親にもちょっと持ち上げられたりして、それでわたし中学受験を頑張ったんですよ。まわりの大人もみんな「絶対受かる!」って盛り上がっちゃって。
でも結果は3校受けたうち、いちばん下のランクの学校しか受からなかったんです。それが人生最初の挫折でした。「あれ?絶対受かるってみんな言うたやん」みたいなね(笑)。それで初めて親に反発して「公立の中学に行かせて欲しい」と言いました。この滑り止めみたいに受けた、私にとっては挫折の象徴とも言える私立の中学にはどうしても行きたくなかった。
それが人生で初めて自分で選んだ道でした。だからこそ、中学の3年間はなにがあってもガマンしなくちゃいけないと、かなりストイックな3年間を送ったと思います。それもあって、当時から「自分ってなんなんだろう?」と考えていました。いまでいうところの「メタ認知」みたいな感じ。
自分を俯瞰して「じゃあ自分はこの家ではどういう存在なんだろう」とか「この中学でどういう存在として立場をつくっていったらいいんだろう」というような視点が育まれたのかなと思います。
──それはやっぱり挫折感がきっかけだったんでしょうか?
SHOWKO:
挫折感もそうですし、あと家そのものが代を継いでいくことで成り立っている家なんでね。代を継ぐっていうのは、代を継ぐその人に、いろんな注目やリソースが集中して注がれるわけです。それはとてもはっきり区別されます。
でもだからといってわたしはそれに対して寂しいというような感情を抱いたことはなくて、じゃあ後継ぎではない人間としてこの家に生まれたわたしは、ここでどのようにして居場所を作ったらいいんだろうと、わりと冷めた視点で状況を見ていたんだと思います。
いま思うと、家のみんなが共有していた「家を継ぐ」というひとつの強い熱意から、わたしは少し離れたところから家を見ていたんだと思います。そういうふうに見れたのは、逆にいえばわたしが後継ぎとは縁のない立場だったからなのかな、っていまは思います。
でもその時の自分はこんなふうにきちんと言語化できなかったので「わたしってなんのために生まれて来たんやろう」っていうところまで、突き詰めざるを得なかったですね。
──10代で、ですか。
SHOWKO:
ねえ。本来だったらいちばん多感な時期じゃないですか。もっと感情的になっててもおかしくない年代にしては、すごく理性的なお題ですよね。
──そうですよね。やっぱり置かれた環境の特殊性みたいなものも強いプレッシャーになっていたんでしょうね。
SHOWKO:
かもしれないですね。
──思春期の多感な時期に抑制的に自分を客観視せざるを得ない環境に置かれて、内心では反発もしつつ、大学に進学されるんですよね。
SHOWKO:
そうですね。その後は芸術系の大学ではなく日本文学を学びました。やっぱり芸術系の大学に進んでおけばよかったかな、という思いもあります。でも結局のところ現在はクリエイティブな仕事につき、作品は「読む器」をテーマに、世界を表現するための物語を書いていたりするわけなので、文学を学んだことがいまの作品につながっている面もあるんですよね。不思議なものです。
望月めぐみ:
けっこう、そういうものだよね。
SHOWKO:
そうそう。当時は「なんの役に立つねん」とか思ってても、あとになってやっといてよかったって思うことはありますよね。ムダな学びなんてひとつもないんだなあって思います。
──でもそこで、ひとつの大きな転機を迎えることになるんですよね?
SHOWKO:そうなんです。
温新知故
#22
望月めぐみ×SHOWKO
文:
松島直哉
撮影:
福森クニヒロ
望月めぐみ HP:
http://www.mochime.com
SIONE HP:
http://sione.jp
いわゆる「古きを訪ね新しきを知る」という視点からではなく、むしろその逆、新しいものの向こう側にこそ垣間見えてくる京都の先人たちの、技や知恵。
この対談シリーズでは、若い職人さんやアーティスト伝統文化の世界ではない人からの視点も交えた異色の対談集というかたちで京都の伝統文化に新しい光を当ててみたい。