看板メニューの誕生秘話
明治40年に宮川町に創業し、芸舞妓さんに愛されながら現在まで洋食店を営む「グリル富久屋」。現店主の林さんは4代目にあたります。飲食店から始まり、林さんの祖父の代からお店は洋食店として確立したそうです。
「戦後すぐの時代は、飲食店をやりながら他にもいろいろ派手にやってはってん。屋上でビアガーデンしたりとか、昔の歌舞練場の地下で小規模やけどダンスやらのショーがあって。喫茶部もやってて、昔の派手さやな。」


お店には当時の洋食のメニュー表と喫茶部のメニュー表がそれぞれ残っています。メニューの表記が「味譜」であったり「丸公」といった公正価格の意味を持つ言葉がメニュー表に記載されています。戦後すぐの時代では、ウィスキーや牛乳の値段を国が決定して、その価格で販売が行われていたそうです。戦後当時の状況や物流が伺える物がメニュー表という形で残っており、富久屋の歴史を感じさせます。

現在までお店の看板メニューとなっている「フクヤライス」もその時代に考案されたと言います。
「きんつるさんていう芸妓さんがいはってん。その人がご飯食べにお客さんと来はって『柔らかいオムライスが食べたい』って言わはったらしい。はじめは蟹身とか、ちょっと上等なんを使って出してた。それをやってたらだんだん広まって、いつでも手に入る材料で改良して今の形に最終なったと。」
今でも、昔食べたフクヤライスを食べに来た人にも味が変わったと思われないよう、当初から特定の季節しか手に入らない食材高価で手に入りづらい食材は使わず、同じ価格でずっと続けられる料理にしたそうです。きんつるさんのいた時代では、現在よりも芸妓さんの数が多く、お茶屋も多くありましたが社交場や息を抜ける場所は少なかったのではないかと言います。
そんな中で、富久屋は当時から数少ない芸妓さんたちの社交場として、芸妓さんが愛した味が変わらず受け継がれています。

かわいらしい一口サイズの真相
フクヤライスと同時期に誕生したという、もうひとつの人気メニュー洋食弁当。エビフライや白身のフリット、ヒレカツなどみんなが大好きな具材が詰め込まれていますが、一般的なものより小さめの可愛らしいサイズ感が印象的です。これについて巷では「舞妓さんのおちょぼ口に合わせた一口サイズ」といわれることもあるそうですが……。
「それ実は、取材に来てくれたやる気のあるライターさんが考えはったこと。舞妓さんが来てくれるのと比べたら一般のお客さんのほうが来てくれはる数も多いし舞妓さんに特化してなんてなかなかできひん。」
そんな真相があったとは。花街で長く営業する富久屋だからこそ生まれた都市伝説的なエピソードかもしれません。名前がいつのまにか気づいた時には洋食弁当で定着していたりと、謎多き人気メニューのひとつです。

花街の夜といえば日をまたぐことが当たり前。例に漏れず富久屋も数年前までは深夜まで営業されていたそうですが、コロナ渦を経て、現在はお昼12時から夜の21時までの営業になったそうです。「もともとは24時過ぎまでしてたよ。まいにちザ・宮川町っていうやつ。そんな街やってんな、昔は。夜中11時半に電話がかかってきて『お皿取りに来て』とかな。そやけどまあ体が続かへん。ほんでお茶屋さんの配達は遅くまで受けるけど店だけ早よ閉めよか?とか言い始めて。あとはコロナかな。晩歩く人がいんようになった。一回ギア落とすやん。もう年いったら上がらへん。」
まだ髪の毛も染めてへんよ、と言いながら笑う林さんは今年57歳。何年このギアで続けられるか体力が心配、と語られるのが嘘に聞こえるほど若々しく凛としておられます。

楽屋見舞いの定番、サンドイッチ
宮川町の近所には歌舞練場だけでなく南座もあり、踊りの会やお流儀の会が年間を通してさまざまに開かれており、そんな時にはお部屋見舞いにサンドイッチや洋食弁当は大人気。お店での提供以外にも大忙しです。
南座で歌舞伎の公演がある時には、サンドイッチを楽屋見舞いとして頼まれるので、各お茶屋さんの届ける日が被らないように調整したりするのも仕事のひとつです。
お茶屋さんへの配達も直接ご主人が出向くそうです。
「楽屋見舞いのサンドイッチの注文が被る日とかあんねん。この役者さんにどこそこのお茶屋さんから送るゆうたはって、それの調整せなあかんやろ。おんなじ日におんなじもん持ってってもしゃあないし、1日2日ずらしてもしゃあないからね。日割りとかもしてあげなあかんし。」
歌舞伎役者さんとも縁が深い花街では、富久屋のサンドイッチは定番の楽屋見舞いとして親しまれています。12月の顔見世興行の時期は特に忙しく、役者さんもよく来店するそうです。

宮川町の台所
幼い頃からお店で過ごしてきたご主人。今も変わらず住居とお店は兼用で、若々しく、忙しなく働いています。若さの秘訣を聞くと、「運動は今はなんもしてない。通勤ないからちゃう?」とのこと。朝になると、起きて上の階からキッチンに降り、そのまま火をつけ、お湯を沸かし、コーヒーを飲みながら開店準備をする。これが毎日のルーティンで、通勤がないということがここまで続けられている理由のひとつだとご主人は言います。
他の仕事を考えたことは昔も今もなく、花街の中で営み続けることを考えています。
「他の仕事?外では絶対働けへんやろな。ここで生まれてここで育ってるから。これからギアをどう変えていくか考えながら、やるのはやり続けようとはおもってる。体力の問題もあるし怖いのは老いやな。」
花街の時間の流れを間近で見続けてきた林さんだからこそ守ることのできる変わらない味。受け継いできたお店を続けていくことを真剣に考えながら、グリル富久屋は宮川町の台所として今日も忙しく営業中です。
京都のスープ
#35
グリル富久屋
文:
井口友希(文芸表現学科)
瀧山璃空(クロステックデザインコース)
則包怜音(油画コース)
写真:
瀧山璃空(クロステックデザインコース)
「外では絶対働けへんやろな。ここで生まれてここで育ってるから」
花街で生まれ育ち、現在4代目店主の林寛さんにお話を伺いました。