主婦が復活させて、名前をつけた「さくら織」
──佐倉駅からここまでの道すがら土地のランドスケープ、非常に特殊だと感じたのですが城下町だったんですよね。
どこにお城があったんですか?
この辺りは武士が住んでいたところです。
城跡はもう何も残ってないのですが、歴史博物館があります。
あまり知られていませんが、佐倉は結構、歴史があります。
城下町なので、通りがあちこち行き止まりになっていたり。
──歴史がこの街の形を作っていると言うことですね。
「手織りの仲間、さくら」は、何の名前ですか?会社の名前じゃないですよね?
私たちのグループ名です。
──グループ名が「手織りの仲間、さくら」
工房名も「手織りの仲間、さくら」
その結成はいつ頃ですか。
平成5年4月に作りました。
──その時から、今日のメンバー?
いいえ。もう少し別のメンバーだったんですけど、
途中で入ってきてくれたりしながら、今は7人です。
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──「手織りの仲間、さくら」の歴史について教えてください。
佐倉の和田という地区に、明治から大正まで機(はた)をやっていた人達がいました。
和田に成田空港への高速道路ができる時、
家の建て替えで物を整理するんですよね。
その時に機と古文書のような織(おり)の口伝集(くでんしゅう)が出てきたんですよ。
ある日、地域の公民館の広報から
「長い間途絶えていた“機織”を復元しようとしていますが、誰かやる人いませんか?」
と募集が出たんです。
それで、行ってみると仲間がいて、活動が始まったんです。
──公民館の活動で、実際に織ってみたということですか。
はい、有志が集まり機織を復元しようと思いました。
口伝集を見ながら、毎週金曜日に集まって、16年程かかって
全300種類織りあげ、全部一覧表にしました。
その後に美術館で展示会をしたんですよね。
そしたらば、観に来られた皆さんが「本が欲しい」とおっしゃるんです。
だから、次に本を作りました。機織を学ぶ人が見ると“これが織れる”というパターン集ですから、
とても好評だったんです。
──毎週金曜に集まって?
集まってだけども、織る作業は個人の家で割り当てでした。
──宿題のような?
そうですそうです。
ここまではあなたがやりなさい、ここまではあなたがやりなさい。
もう必死でした。
実物が欲しいという方もいたので実物帳も作ったんです。
全部で300種類くらいの織り方、柄があります。
──実物帳は高価ですね。
(笑)いや、大したことないですよ。
──2、3万円ですか?
2、3万だとケースしか作れない(笑)
──じゃあ10万円ほど。
そう、そんな感じがいいかと思います(笑)
限定30部でしたが、売れちゃいまして、もうないです。
──じゃあもう一回作らなきゃ。
いやいや、もうもうもう。
もうおばあさんになりましたので勘弁してください。
今は私たちが解読した「口伝集」が文化財に指定されました。
──皆さんのこれまでの活動のおかげで。
だと思いますけど(笑)
思いたいんですけど、今までは口伝集を勝手にコピーして使ってたのに、
一切ダメになっちゃったんです。
簡単に借りられないんですよね。
笑っちゃうくらい変わりました。
「そういうもんですか」という感じです。
──元々は公民館活動の一環として始まった。
途絶える前の歴史みたいなのは御存じなんですか?
和田地区で、作られていて、途絶えてしまった理由とか
随分聞いて歩いたんですけれども、とにかく織った物が残っていない。
皆さんもう忘れちゃってて。
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──織の完成品は残ってなかった?
2、3点だけ残ってて、夜具地(やぐじ、お布団の生地)とか、
結婚するお嬢さんにあげるものをそのまま残していたり、
それくらいしかなくて。
和田は、お蚕さんをやってたようです。
絹は立派なのは京都の方に全部やって。
元々、「養蚕」から「織り」に繋がって、家にいるときにいろんなところを回ってくる人たちが口伝いに、
いろんな織り方を習ったっていう風に聞いてますけどね。
それを記したものが口伝集です。
その口伝集が出てきたお家は、すごくお金持ちなんですよ。
──ここまでお話を伺ってきましたがこんなに大変なことを、しかもかなりの年数やってますよね?毎週金曜日に集まって、宿題をこなして。モチベーションは何ですか?なぜ皆、そんな大変なことを続けているのか。これは、一人一人聞いていきましょう。
(笑)
小野さん:
元々は調布に住んでいまして、
夫の転勤で佐倉に越してきたらすぐにこの会の募集がありました
機なんて見たこともやったこともないんですけど、
行ってみたんですね。そしたら何か楽しそうだったんです。
でも私、しゃかりきでやってないんです。わりと呑気にやってましたね。
機も買ったんですが、それも一生懸命やろうっていうんじゃなくて、
楽しみでやればいいかなっていう感じ。
結局、仲間がいいんです。
色々教えて頂いたりして、それで40何年続いてるんですね。
──当時は引っ越してきたばかりで。
友達とかもいないし、何をやったらいいかも分かんないし。
それで私「最後まで何もやったことないんですけど、いいですか?」て言ったら、
「とりあえず来てください」とおっしゃってくださって、
それで入ったのがきっかけなんですね。
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──はいでは次、お願いいたします。
斎藤さん:
私も和田の公民館の募集から。
仕事をしながら、サークルのようなものだったのでそんなに重く感じず。
ここまで続くとは思わないような感じでね、始めたんですけど。
で、ちょっと物足りない、もっと活動したいっていうので、
「公民館から出て、仲間でやりましょう」と
今の仲間「さくら」の結成に入ったんですけれども。
結果、こういう形を残すことができた。
これは自分たちのやってきたことの成果かなって。
私自身にとっても宝物っていうか。
やり遂げことに、自分の中でほっとしてます。
今はもう和気あいあいに皆でお喋りができたり、
Whole Love Kyoto さんとこういう機会に恵まれてね。
本当に感謝してます。
そんな感じでございます。
──ありがとうございます。では次の方。
齊藤さん:
私が一応、ここの会では一番古いんですけれども……
当時、ちょうど2人目の子どもが3歳になったんですよ。
同居してたおばあちゃんが
「週にいっぺんならこの子見てあげるよ」って言ってくれたので、
じゃあ週に一回どっかに行きたい!と思った時に、
たまたま募集が出ていました。
だからそれから何年だ。
……今うちの息子が48歳になってます。
……45年ぐらいです!
機織りのこと、全然知りませんでしたが、
その時はまだ地元のおばあちゃんがいて、直に習ったんです。
でもその方達もすぐに亡くなっちゃったんですよね。
本当にあっという間に2年ぐらいでバッと。
現メンバーの中で、私だけがそのおばあちゃんから直で教わって。
“おばあちゃんから教わる”って言うのは簡単ですが、
その実、大変なことで、数字が通じない……。
でもおばあちゃんたちも今の私達の年よりは上だと思うんですけど、
よく教えに来てくれたなと思っています。
──そこから45年もやっている。
本を作ったりするのはちょっと好奇心も満たされるんですよ。
ただ“機を織って作品を売ります”ではなくて、ちょっと学術っぽい。
口伝を解くのは、家庭の中にはない好奇心みたいな。
ちょっとレベルの高い好奇心が、自分の中にあったのかな。
おばあちゃんから教えていただいたののは、基礎の基礎だけ。
あとは、自分達で勉強しなくちゃいけなかった訳です。
草木染も自分達で調べて買いに行きましたし、それこそ色んな講習会にも参加して、
公民館活動だけでは足りない部分が広がってきた。
本を作る頃になると、自分達のレベルが上がってきた感じがしたので、続けてきました。
自分の子どもたちも「大したもんじゃ」とか褒めてくれるんで、
これで、いいのかなと。
ちょっと何かやったかな。ていうようなそういう感じです。以上です。
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──ありがとうございます。
公民館活動では物足りなくなって、独立というか
現在の「手織りの仲間 さくら」ができたということですね。
では次の方、
私たちは途中参加の3人です。
先輩たちが活動なさってて、「手織りの仲間、さくら」の工房ができてる状態から加わりました。
先輩方が「さくら織」を一般の人達に
知らせていくことも大事なんじゃないかっていう活動の一環で
『マフラーを織りませんか?』ていう講習がありまして。
それで、コースを受けさせて頂いた。
17、18年前に(笑)
もうそろそろ20年です。
かれこれ20年近くなりますけど、先輩達の魅力と奥深さに。
──怖かったですか?先輩は
そんな、とんでもないです。
先輩たちは自分たちで、口伝から今の形を作っていかれました。
さらに、私達のための教科書も作ってくれたんですよ。
機織りの教科書ってないんです。
糸巻きから、機に掛け、図解付きで、もしトラブルがあったらどんな対処をするとか。
……でも、それ見てもできないんですけど(笑)
できないことが、もう辛くて。で、3年でなんとか、
──それも週1ですか?
そうです。ですから皆、家に機織り機を持ってます。
ここで習ったことを家で復習して、家でできなかったりとか、分からなかったら先輩に聞いて。
まだまだ未熟です、この3人は。
──さらに、もう次の世代の弟子をとるのはやらないんですか?
少しそういう話もあるんだけど、
自分たちの方で覚悟決まらないと受けられないね。
エネルギーがいるんですよ。
結局、若い方達がこれだけの根を詰めて、学んでいくのは、なかなか難しい。
習得するには私たちと同じように長くかかります。
私たちだってまだまだ。
娘見ててもそうですけど、仕事を持ちながら続けるのは、なかなか難しいんじゃないかと思います。
今の若い人はお仕事してるからね。
この活動は、収入になりません。
収入にならないものをやる訳にいかないもんね。道楽だもんね(笑)
でも楽しいから続けられた。
こうして続けてられて、仲間とも和気あいあいと来れた。
うん、織が好きなのと仲間が好きなのと、
やっぱりそれが一番じゃないかな。
これからどのぐらいできるか分かんないけども、
やれるだけね、ここでやっていきたいなと思ってます。
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──めっちゃすごいと思いました。
でも、どうしてそんなに続けられたのかは今も謎のまま……。
世代、時代が違うというのもあるんだろうか。と今聞いてて思ったんですけどね。
やり始めると全部やらないと気持ち悪いですよね。
展覧会やると「本が欲しい」って、じゃあこれもやらなきゃいけない。
「実物が欲しい」で、やらなきゃいけない。そんな感じ。
やるからにはちゃんとしたものを作りたいねって。
実物見本を作る際に、表具師さんに35部作ってもらいました。
こだわりたいので「自分達の織った生地を箱に貼ってほしい」とお願いしたりして。
やってるうちに何か面白くなってきたんですよね。こだわっているうちに。
面白がってやってるうちに時が過ぎたっていう感じかな。
──今更なんですが、確認です。
口伝集に載っていたものは「綾織(あやおり)」なんですよね?
あ、はい。
──では「さくら織」って何なんですか?
「さくら織」という名前の歴史はないんだけど、
自分たちで勝手に、この見本帳に載ってる織を「さくら織」って言っちゃおうかって。
だから「さくら織」は伝統的にあったものじゃないんですが、
発端にはこの口伝集があって、それを織ったのを「さくら織」としようと。
──で、今は「さくら織」としてる。クリアになりました。
口伝集にあった綾織を元にして、
今の「さくら織」になってるんですね。
「さくら」の由来は、ここの(地名である)佐倉なんですか?
はい。一応それをイメージして。
自分たちの名前のさくらもあるし。
──日本に織物の名前は「久留米絣」とか色々ありますが、
自分たちで名前を付けた職人さんは、きっと日本でここだけですね。
そんな人はもう生きているはずがないので。
面白いね。
不思議だけどね。
高速道路ができなかったら古文書が出てこなかったですもんね。
高速道路ができて土地が動いたから。
──もし生地を発注したら、織ってくれたりするんですよね。皆さんが。
今までは、してません。
注文がきたことがありません。
だからWhole Love Kyoto さんが初めてじゃないですか?
──私たちが初めてですか。はあ~。
ということは、注文があれば織ってはくれるってことですね。
Whole Love Kyoto さんが使う量はわずかですよね。
そんな大したことないことだから。
──おっきいと、ちょっと勘弁してほしいってことになるんですか?
着物みたいな大きなものを織ってと言われると大変だけどね、
まだ在庫がたくさんありますので、それでよければ。
──発注しても作れるかどうか分からない=産業になっていないという点が、また特殊な織物ですよね。
皆さんが「さくら織」の一番推してる部分はどこですか。
口伝集から始まっているということ。
もう一つは佐倉に残っていた藍染屋さんが染めてくれて、織りにしたということです。
ところが、その藍染屋さんも、この間の台風で、藍甕(あいがめ)が全部壊れちゃって、廃業したんです。
江戸時代からの藍染屋さんが幕を閉じたので、ね。
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──それはとても残念なことですね。
台風で全部ダメになっちゃったんですか。
おじさんはもう80越えてたので。
もう少しやるつもりだったんですけど、台風でもう出来なくなったんです。
職人さんがどんどん減ってくる。
継いでくれる人がね、いなかったからね。
別に口伝集に“藍で織る”とは書いてないんだけども、
私たちが、たまたま側に藍染屋さんがあったから、藍と濃淡で全部織ったという。
染め屋さんもなくなってきてますよね。
──それは本当に全国的な問題ですね。
あ
お茶どうぞ。
こちら佐倉で一番古い、お菓子屋さんのです。
(蔵六餅・写真なし!すみません)
──いただきます。
毎週の集まりにも、お茶の時間が必ずあるんですよね?
これが主になってきてて最近は。老後の話とね。すでに老後なんだけどさ。
年金の話とか旅行の話とか、お土産みんなで食べたりとか。
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──最近、旅行してないんじゃないですか?
私たち、ドイツにも行って展覧会やっているんです。
旧東ドイツのエアフルトっていう街。
けっこう長い期間ですよ、2週間ぐらい。
──どうしてそんなことになったのですか?
日独協会がやってくれないかって。
着物着て、機も1台持って。いい思い出です。
エアフルトの街を着物着てゾロリゾロリ。
──長い滞在だと食べ物、嫌になったんじゃないですか?
自分たちで持って行くんですよ。お漬物からなにから。
ベルリンの壁が取れてすぐだったから、
東ドイツの匂いがいっぱいあって面白かったですよ。すごく。
例えば車が走ると、モウモウと排気ガス。
今はもう、ああいう経験できないね。
こういう思い出が、長くやってこられた理由の一つかもしれない。
──長くやってると、刺激的な出来事がちょくちょく起きる。
東京でもあります。青山で展示会を何回かやってます。
──展示会をされたら、その時に「欲しい」という人、
いっぱいいました。ほとんど売れますよ。
──やっぱり!何を販売するんですか?
マフラーや、お洋服。
最初の頃は、自分達で草木染で糸を染めてました。
「マフラーの100本展」とかやったよね。
春夏秋冬の色で染めて、柄は全部口伝集から。
結構なお値段でも、青山あたりだと買ってくださる方はいっぱいいて。
大変だったけれど、今思うと面白かったなって思う。
あとね、佐倉の美術館で展示会すると、館長さんが「年間で1番お客さんが入る」って言ってくれたり。
館長さんは、モニターで見てるらしいの。笑
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──最後に、なぜこのHANAO SHOES JAPAN の企画に賛同していただけたのか教えてください。
「そりゃやるでしょう」みたいな感じですか?
そりゃやるでしょう。
私たちのことをそういう風に見てくれるんなら、乗りましょうっていう感じかな。
あの時期はコロナでそういうお誘いがなかったんだよね。
その時にお話が来て、面白いなって思いました。
私たちの中にないものと関われることがすごく嬉しかったので、いいねって。
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「手織りの仲間、さくら」の皆さんとのお話を終えて
インタビューを要約すると
千葉県・佐倉の「さくら織」の特徴は
“主婦が、途絶えていた伝統を40年以上かけて復活させた”
このことに尽きると思います。
主婦の皆さんは、
それまで特に織物に興味があったわけでも
伝統をなんとかしようという意気があったわけでも
ありません。
暇つぶし?自分のため?楽しそうだった?
そんな、とても一般的な動機です。
でもそこから、40年、続けます。
この長く続けるモチベーションがいまいち分からないインタビューとなりましたが
なんだか、皆さん和気あいあい、とても楽しそうで
まあ、いいか と思わざるをえませんでした。
「伝統」は、
画数も多めで、なにかと偉そうな言葉ですが
主婦にかかると、そんな偉そうな感じはすっ飛んでいきました。
偉そうなのは、みっともないことだな。
昔の日本で当たり前だった「専業主婦」という形が
千葉の、佐倉では、復活に影響を与えていました。
(専業主婦じゃないと、これはできなかったはず)
様々な要因が、どこでどう回ってか、様々な物事に影響するんだと
再確認しました。
佐倉の街の景色が素晴らしかったので、また訪れたいです。
「手織りの仲間、さくら」の皆さんとランチもしなければなりません!
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KYOTO T5センター長、酒井先生がブラブラする。
#03
手織りの仲間、さくら
文・撮影:
酒井洋輔
手織りの仲間さくら HP:
http://www.teorinonakama-sakura.com
とのことで訪れることになりました。
東京から少し離れるだけで、こんなに絵にかいたような田園風景があるんだと
車窓を見ていました。
駅に着いて、階段を降りると駅前の風景が素晴らしい。
急勾配の坂道の先は、空。
地図を見ると、どうやらあの坂を上らないといけないようでした。
目当ての「さくら織」の工房は、坂の途中の道を曲がってまた別の坂を上ります。
さらに急な坂道。不思議なランドスケープ。
途中、ピーナッツの専門店があり、千葉だなあと思いました。
「手織りの仲間、さくら」のメンバーが道まで迎えに来てくれました。
ということで、今回は「さくら織」の本拠地で
「手織りの仲間、さくら」の皆さんにお集まりいただき、インタビューです。
インターネットで調べてもあまり情報がない、レアな織物。
果たしてどんなことになっているのか、気になります。
1階は織機が並ぶ、ショップのような空間。
2階に案内いただくと、6名のメンバーがスタンバイされていました。
皆、口々にいろんなことをおっしゃるので混乱します。
はい、落ち着いて、
ここから始まるインタビューも、1名が代表して話されたことではなく
メンバーの皆さんが話されているので、いろいろ読むのもたいへんかもしれませんが
どうぞよろしくお願いします。