職人interview
#59


楽焼|茶の湯楽茶碗の職人

楽茶碗はお茶を飲むための器という用途目的があって生まれた世界でも類のない珍しい焼き物です。
今回は、明治38年から続く歸來窯の二代目、佐々木虚室さんにお話を伺いました。

お茶を飲むために生まれた世界でも類をみない茶碗

──有田焼や美濃焼のように産地の名前がついていない楽茶碗ですが、その名前の由来はなんですか。

楽茶碗というのは、千利休が自分の「茶の湯」を体現するために瓦職人の長次郎に作らせた侘び茶椀が始まりです。千利休の亡き後に豊臣秀吉から聚楽第の「楽」の字から名付けられて「楽焼」と呼ばれるようになりました。

──楽茶碗とはどういったものですか。

本来は初代長次郎の子孫、楽家歴代がつくった茶碗のことで、楽家と同様の陶法を受け継ぐ京都の玉水焼き、金沢の大樋焼きを楽茶碗と呼びますが、角川茶道大辞典によれば「楽家と同質の場合、楽焼の範疇ととらえられる」と記されています。
そして楽茶碗の中では、千利休が作らせた長次郎のお茶碗が完成形だとされています。

──楽茶碗と他の焼き物との違いはありますか。

普通焼き物は、土をこねてゆっくり何日も時間をかけて1200度くらいまで上げて焼き上げるのです。
そうすることで堅く焼きしめられ丈夫で壊れにくい焼き物ができます。
ですが、楽茶碗は違って、時間をかけず表面だけ焼きます。いきなり1200度の窯に入れ3~4分、釉薬がとけたところで「やっとこ」を使って窯から出します。ステーキでいうとレアに近いですね。
これは、熱いお茶を入れてもお茶碗が熱くて持てないといったことがないように工夫して作られたものです。
しっかり焼き固めていないのでお茶を入れたまま10分も放置しているとじんわり水分が漏れてきますが、お茶会や稽古で使うにはまず問題ありません。

──他にはどういった特徴がありますか。

特徴としてはもう一点、ろくろを使わず手捏ねで作られるので、そのわずかな歪みや表情が不足の美、左右対称ではない不完全なものを愛でる侘茶の世界をより深めます。千利休の流れをくむ三千家と呼ばれる表、裏、武者小路の三つの流派では、楽茶碗は他のどんなに素晴らしい茶碗より、格上の茶碗として取り扱われています。
このことをヨーロッパの方、特にフランス人はなぜか知っていて、うちの窯までわざわざ訪ねてきます。彼らは禅に物凄く興味を持っているのですね。中国では禅は廃れてしまいましたが、日本の禅は現代まで続いていて、茶の湯の神髄にあることを知っています。そこで禅の精神が体現されている楽茶碗に辿り着いたそうです。

──歸來窯の歴史を教えてください。

ここ、歸來窯の歴史は昭楽窯をおこした曾祖父、吉之介の代から始まります。
彼は京都の中京区丸太町の麩屋の次男で絵描きだったんです。清水焼の絵付けをしていて、じきに独立して本格的に茶碗つくりを始めました。絵付けの窯は850度で焼くものだったので、ちょうど赤楽の茶碗づくりに適した窯だったんですね。明治38年に楽茶碗つくりを始めました。
これがうちの茶碗つくりの始まりです。それから祖父の成三が昭和19年に京都府亀岡市に窯を作り越してきました。続いて父、輝夫の時にさらに亀岡の山里に広い場所と環境を求め弁財の場所に窯を移しました。平成8年には大徳寺管長14代、福富雪底老師より父は陶名を「居室」、窯名の「歸來」を拝受しました。
私はその2代目となります。
茶道が隆盛だった昭和時代には、総勢14、5人お手伝いの人にも来てもらい働いた時代もありましたがずっと親類や家族だけでやってきて、弟子をとったことはありません。

──小さなころから茶碗つくりを仕込まれたのですか?

住居と仕事場が一緒だったので子供のころから土ひねりして遊ぶことはしていましたね。「ただいま」と帰ってくるとみんながそこで仕事しているという感じで。茶碗つくりを仕込まれたというのはなかったです。見て覚えていくというスタンスです。
ただ、高校進学にあたり、普通なら友達と一緒に地元の高校にいくところ、父親に決められた陶芸科への入学には正直、反発は覚えました。結果的にはよかったと思っています。その後、大学の工芸学科、陶工職業訓練校と勉強を続けました。一通り学び、卒業して陶工にはなれますが、どれだけ学んでも実際の現場で得る知識や経験に勝るものはありません。窯元の経験値は大切な宝です。

──陶芸家と茶碗屋の違いを教えてください。

「この茶碗はどんな思いで作ったのか」特に外国人はこう聞いてくる人が多いですね。作るものに思いを込めるのは陶芸家で、家元やお茶の先生から「こんなものを作って」と言われ「そうそう、これやこれ」とできたものを見てこう言ってもらうのが茶碗屋だと思っています。
私は楽茶碗の写し(本物とそっくりに複製したもの)を作ることを重要な仕事としています。お茶の教室で千利休が使った本物の楽茶碗を使うことは難しいので、少しでも近いものを体感してもらえるように作っています。

──京都の好きなところを教えてください。

京都は好きですね。歴史を日常に感じられるところ、京都の文化、精神的なところが好きです。京都を意識したのは、子供の頃に祖父から感じました。明治の職人だった祖父は、日ごろは一月の中で1日と15日しか休まなかったのですが、7月だけ15、16、17日と3日間も連続して休み、朝から酒を飲んでいました。おかしいなと思い、僕は「おじいちゃん何で?」と聞くと祇園祭だからというのです。7月の間、祇園祭は続いていますがこの日は山鉾巡行の前祭で、宵々山、宵山の日でした。亀岡に越していたので、コンチキチンも聞こえてこないしテレビで見ているわけでもないですけどね。
祖父は「わしは洛中で生まれた人間だ」とよく言っていました。京都の町衆だという誇りを持っていたのでしょう。清水で生まれた父のことは、「おもえは洛外で生まれた人間や」とも……。
これから京都に住もうという人は、京都の人にはこういった意識のあることを知っておくといいかもしれません。

──最後にこれからの展望を教えてください。

楽茶碗は、茶道と共にあるものなので、今後の茶道の発展が気になりますね。
楽茶碗をこれからどうしたらよいのか……。戦中、戦後のお茶どころじゃない、とても大変な時期も窯を守り、先人が乗り越えて何とか続けてきましたのでコロナで大変ですが、やっていけないことはないと思います。
昔、職人は半商半工といって、1年の半分は一生懸命売り物を作り、残りの半年で各地へそれを売りに行ったものでした。今、インターネットの発達で問屋に卸し、茶道具店で販売してもらうといった関係が壊れつつあります。
日本の足らないところは技術や文化など良いものをもっているのにそれを伝えるノウハウがうまくないところですね。
売るノウハウを持たない我々のようなものをプロデュースしてくれる人が増え、世界に日本文化、工芸品の良さを発信してくれる人がもっと増えたらたらいいですね。

取材を終えて……
楽茶碗のこと、窯の歴史のこと、日本文化のこと、コロナで行けなくなってしまいましたが何年か継続されているヨーロッパでの楽茶碗のレクチャーのことなどをとても気さくにお話してくださいました。SNSでの発信、青少年の茶碗つくり体験を通して日本の伝統文化を語り伝える活動などにも精力的に取り組んでおられます。暑くて危険できつい仕事だけど世界の人が興味を持ってみてくれる、とてもやりがいのある仕事をすることができて本当に良かったと語るお姿がとても印象的でした。


職人interview
#59
歸來窯
佐々木虚室

文:
杉浦康子(通信教育学部 アートライティングコース)

歸來窯HP:
https://shorakugama.com/kyoshitsu/

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楽焼|茶の湯楽茶碗の職人

楽茶碗はお茶を飲むための器という用途目的があって生まれた世界でも類のない珍しい焼き物です。
今回は、明治38年から続く歸來窯の二代目、佐々木虚室さんにお話を伺いました。