1945年、終戦の年に大分県の小さな島で生まれ育った竹中さんが、どうやって金彩職人になられたのだろうか?
16歳になった竹中さんは、生まれ育った大分の島から東京に働きに出てきた。トランジスターラジオやテレビのアルミなどに色を付ける町工場で働きはじめた。社長が金属の表面を電解研磨し苦労して均一な色に仕上げるのをみて、竹中さんは、持ち前の観察力と器用さで作業の勘所、色付けの頃合いの良い時間を覚えた。ひとりでやってみると、なんと一発で成功したそうだ。ほどなく、その仕事を任されるようになった。
それから次々と作業をおぼえ半年後には、工場内のすべての作業ができるようになっていた。しかし、月給はわずか3000円。これでは親に何もしてあげられないと1年半で工場をやめ、次の仕事を探した。それが竹中さんの金彩加工職人としての人生の始まりだった。
「うちのおやじは、戦争から帰ってきて、鍋釜を売り歩くブローカーみたいなことやってたんかな、その時に知り合いになった人のつてを頼って、わしは京都の金彩加工の家に住み込みで働き始めることになったんだ。」
「同時期3人一緒に金彩屋(金彩加工の工房)で働き始めたんだけど、わし以外の二人とも一週間でやめよった。食事のことで喧嘩して出ていきよったみたいだった・・・」
──金彩の仕事は先輩に教えてもらったりしたんですか?
「仕事場には、先に女の子二人いたが、彼女らに教えてもらったことはない。入った日からいきなりひとりでやった。
道具作るのも修理するのもそんなんだから自分ひとり、こんなのしたらうまいこといく、というのをあれやこれや工夫したで。人の分まで道具作ったり修理したよ。
仕事場はわし以外みな親戚の集まりでしゃべってばかり……
わしは、仕事場を掃除して布団敷いて寝る。朝起きたら布団あげて、仕事がすぐ始められるように準備してから飯を食う。仕事して昼は手の空いたもんが順番に食うんだ。食べたらまた仕事…… 毎日その繰り返し。
1年ほどしてここは、問屋から白布持ってきて商品になるまで作る悉皆屋も始めたんだ。 営業は注文とって来よるだけで…… 染でもしてくれたら助かるんだけどしゃべるだけで何にもしないから。こっちが全部せなならん。
皆、こんなんやるの、いややろうから仕事は夜9時10時までやって一旦おわり。
身体じゅう金だらけになるから風呂入って、みんな寝たあと、それからわしひとりで悉皆屋の仕上げするのに朝の4時頃まで働いた。納品間に合わせなならんでな。
身体が持たんと「やめさしてくれ」何度言ってもやめさせてくれへんかった。
「いずれお前たちのもんになるから…… 」とかなんとか言っていたがわしが首を縦に振らんかったからおもしろくなかったんやろな。いろいろ大変だった……
こんな環境の中、働いてきたんだ。愚痴こぼす相手もいない。そんな生活が1年半も続いたら本当に体がぼろぼろになった。
結局、この金屋で11年4か月働いて、結婚して半年してようやく独立させてもらえた。」
──独立されてからの金彩業はどうでしたか?
「独立して始めた金彩屋は、最初6畳を仕事場にした借家だった。春にやっと独立したんだがその年の冬はオイルショックで仕事が全くなかった。嫁さんの実家にアルバイトに行ったんだが外の作業は慣れず使い物にならなかったわ。
金屋はずっと家の中で仕事しとるでな。その後、30代で3回家を替えたで。仕事場も6畳から16畳まで広げていった。
着物は毎年新柄がでて、それに合わせて金彩も目新しいものつくらなあかん。
同じに作ってたら問屋から怒られるんや。伝統の柄でも少し色合い変えてな、金彩の加工の色、やり方も他と違うものを作れって。
新しい着物に合う新しい金彩加工を競争で作ってきた。良いものができると追加の注文も入って忙しかったよ。こちゃこちゃ細かく指図されるのより自分の好きにしたものの方がようけ売れたわ。ほんと、よく仕事をした。
それまでは、儲けもほとんどなく仕事してきたんが加工賃が安すぎるというてくれる人が現れ、ある時から給料は2倍くらいまでどんどん上がっていった。それ以上は上がんなかったがな。
最盛期は15、6畳の仕事場は、加工しなきゃならん着物で床からから天井までびっしり積み上がって、いくつか仕切りができたよ。
問屋は日本全国に着物を卸すんで、それぞれ好む色、雰囲気があってな、それに合わせて各地向きむきにつくったりもしたよ。今では着物を着る人も少なくなったな」
──伝統工芸についてどう思いますか?
「伝統工芸いってもずっと同じってものはないな。少しずつ他と違うもの使い勝手のよい物と変えていかな売れないからな。着物も他も一緒と思う。道具も随分変わった。便利になったよ。手に入らなくなった道具もあるけど、なかったら作ればええ。職人の作った手作りのものはよい物だけど高くて金持ちしか買えない。売れない物作ってもしゃあないな。」
竹中さんは、着物離れの現在を何とかならないかと、誰もが着やすいように作り替えてみられたそうだ。
「草履でもブーツでも着られる着物作ってみた。バイクにも乗れるのを。安い着物買ってきて試しに作ったけど誰も良いといわなんだ。今の人の感覚に合わないんだろうな。そのままほってあるわ。」
若いころから金彩加工や道具に常に工夫を凝らしきた竹中さん、現在でも何とかならないかとものづくりに挑戦されるお姿に長年の職人魂を感じました。
インタビューの帰り際、ご自宅の裏の空きスペースに案内してくださいました。オクラの大きな花が咲き誇り、キウイ、ぶどう、すいか…… と丁寧に育てられ、見事に実った果実が夕日に照らされていました。
職人interview
#60
takenaka kinsai
竹中秀美
文:
杉浦康子(アートライティングコース)
takenaka kinsai HP:
http://takenaka-kinsai.jp/
今回ご紹介する竹中秀美さんは京友禅の特徴といってもよい金彩加工の職人さんです。