職人interview
#62


石灯呂|大学時代で学んだ家業の貴重さ

かつて良質な花崗岩(かこうがん)の産地であった北白川の自然の中に工房を構える西村石灯呂店。私たちの大学の先輩にもあたる、5代目当主の西村大造さんにお話をお伺いしました。
西村さんは機械をほとんど使わず、手仕事で石工芸品を造っておられます。カンカンとリズムよくノミが石を削る音を遠くに聞きながら、笑顔が絶えない取材になりました。

大学生活で学んだ家業の貴重さ

──創業何年目でしょうか?

正確には分からないけど江戸時代末までは分かる。僕で5代目になる。

──この仕事を4代目であるお父様から継がれたきっかけはなんでしょうか?

実は高校までは理系志望だった。
普通の公立高校に行ってたけど、 高校3年間本当に勉強してなかったから、いざ3年生になったら受ける大学がないなぁって。そのとき知り合いに京都芸術短期大学に進学する子がいて、デッサンの試験ない造園コースを受けたら試験に通った。
そこで今もお世話になってる尼崎博正先生っていう先生に出会った。
今も学内にある日本庭園・歴史遺産研究センターの名誉所長で、学生時代にゼミもとっていい勉強になって、うちの仕事がかなり貴重なんやってのが分かった。自分が中にいるとなかなかわからないんよね。それで卒業とともに気がつけば家を継ぐことになった。

僕が始めた時点では、手で石工芸品を造ってるところがほとんどなくてほとんどが機械だった。やっぱり仕事がきつい分機械でやると効率が上がるから工芸の中でも一番早く機械化が進んだ。

一般的な石屋さんの主な製品はお墓。
一番売れるし真四角やから機械で切った方が簡単にできる。そして機械で磨く。これを昔は全部手でやってて、磨くのはだいたい女の人。叩くのは力がいるから男の仕事。
建築石材を除く石屋さんは大体9割がお墓屋さんで、こういう灯籠とか造ってる仕事は物凄く特殊。うちの父親が機械で造ったもんが好きじゃなかったから機械でやらなかったのはうちくらいかな。機械製のお墓だと自分のところで今は造らなくてええし。
例えば四国とか大きい石が出るところに連絡すれば出来た状態でくる。「京都型」「大阪型」とか型が色々あって大きさも八寸、一尺とか規格が決まってるから一切自分のところでやる必要はない。お客さんとの話だけで済む。だから、それやと石屋としてどうなんだろうって。

──今までお仕事されてきて苦労したことはありますか?

年取ってきて体がしんどいかな。でも作品ができたらやっぱり楽しい。

──どんな工程がありますか?

まず原石を隅落としする。石は四角の寸法で山方(採石業者)に注文して立方体でくる。それから機械で5mmから1cm大きめに大雑把に切り落としてからノミでやっていく。
ただ、うちの若い子らもまず全部手でできるようになってから機械を使う。まず機械を使ってしまうと機械の味がでてしまう。手で全部できるようになってから使うと手で作ってた工程が分かる。
石は一つ一つちょっとずつ違って全く同じものは無いし、何センチ単位でも全然違う。平面を作る際は微妙に表面を膨らませる。面が大きくなればなるほどへこんで見えるから、機械で真っ直ぐ引くと意外とへこんで見える。人がやってる以上失敗はあるけど、それはそれで味があって面白い。

──石を扱う魅力は何ですか?

石の素材が自然のものなので楽しいのかも。
日本庭園自体大雑把なところがあるので画一的に作るものでもない。同じものを作らないといけない場合もあるけどちょっと違う。絶対に同じものは出来ない。

──ノミを使って石を削り続けている時は、どんなことを考えていらっしゃいますか?

考え事するとミスするから無心の方が良い仕事ができるね。
人のする事なので失敗はあるけど、それを上手く修正するのがプロ。

──こちらが金槌でしょうか?

これが石頭。全国の石屋は金槌を石頭って言う。
片面は焼きが入ってて、焼きがある方で叩く。それでずっとノミと石頭が当たると、鏡のように映るくらいピカっとする。うちは石頭で庭用の灯籠の角をバンバンと潰すから、そのあとは表面が荒れてる。

──何を手で作れるようになったら機械を触る段階にいけるのか、どのくらいの年月がかかるのか気になります。

ノミと石頭が当たるだけやったら半年くらいでできるかな。
ただそれで仕事が出来るかと言ったら違うし、できるようになろうと思ったら10年くらいはかかる。
最初は粗ばつりっていう工程をまずは全部ノミでやらせる。ノミはタンガロイっていう合金のノミを使うんだけど、それを鋼のノミでやらせるとちゃんと当たらないと削れない。半年か1年くらい鋼のノミだけ持たせるとちゃんと芯で当たるようになって粗を落とすようになれる。
ノミぎりに強くなるには1年くらいかかる。粗ばつりが終わったら上の者に任せます。

──道具に対するこだわりや悩みはありますか?

石の道具は大阪と愛知県の岡崎にある鍛冶屋さんのものを使っているかな。
一回買えば同じものを使い続ける。問題はノミぐらいかな。
うちはノミが物凄く沢山あるけど道具屋さんがなくなると困るかな。長さも自由に作ってくれるしね。線を引く道具の墨差しとかは竹を使って自分たちで作るから大丈夫だけどね。


理想は“鎌倉時代”

──灯籠の見えてる線、角を全部潰して丸みをつくるんですね。

理想は鎌倉時代の灯籠の状態なんでね。
造る時はやっぱり角つくらないといけないから、庭園用の物は出来てから角を潰す。同じように均等に潰すと違和感があるから、年月が経った潰し方で苔が乗ったとき違和感がないような潰し方にする。 

──理想が”鎌倉時代のもの”は今まで取材してきて聞いたことがないくらい古いですね。ちなみに、造っている灯籠の形は昔から変わっていないんでしょうか?

一応大体の形式がある。
紋様に関しては時代にあった紋様があって、それを守れば自由に形ができる。笠の形にしてもある程度の自由度はあるし、模様も鎌倉時代を中心に造るってことであれば鎌倉時代の模様を取り入れながら造ることはできる。
時代によって様式が違うから時代設定をいつに持ってくるかがポイント。
うちは依頼された時、石造美術の黄金期である鎌倉時代以前の様式で造るほうがいいですよとは話します。

──西村さんはいつも伝統的な形を造っていますか?自分なりのオリジナルは造るのでしょうか?

創作の灯籠はある程度自由に造ることが出来る。
この灯籠は大体様式が奈良時代様式で造ったかな。香川県の高松のお寺に依頼された灯籠なんだけどね、この寺の裏手のとこに国分寺跡があったからお寺の創建がそれくらい前だということがわかった。
じゃあ創建時代の様式で造りましょうかということで造った。

──石工さんは灯籠を見ると大体どの時代に造ったのかすぐ分かるんですか?

うちは専門だから。
平安時代までは基本的に八角形。日本に灯籠が入ってきたのが仏教の到来と同じくらいに朝鮮半島からきてて、飛鳥寺発掘から灯籠の下台は出てきてるし、山田寺は灯籠の土台やパーツが出てきてるから、その時代に灯籠があったって分かる。
そのときは朝鮮半島の百済と関係が良く仏教も百済から入ってきた。そのころは八角形でハネ笠様式。蕨手様式や六角形の形が生まれるのは鎌倉時代から。

──西村さんはお寺に行ったら灯籠を見て大体何百年の歴史があるか分かるんですね。飛鳥時代ほど昔のものになったら資料を見るのではなく灯籠を見て様式を覚えるんでしょうか?

飛鳥時代とかになったら遺物がほとんど無いから、様式はこういうものだっただろうっていうのは朝鮮半島の石造物でわかる。千利休が露地庭を造ったときに灯籠や古い石工品を持ち込んだと言われていて、当時はものすごく高価で、灯籠一基で山門が建つくらい。
それでうちみたいな写しの灯籠を造る仕事が出てくるのが江戸時代の初期から中期くらいで、主に有名な灯籠の写しを造ってた。
それからは明治から昭和初期にかけて灯籠は改めて価値を見出されてものすごく高く取引された。名品の石灯籠だと京都の町家数軒の価値で取引されたよ。

──時代によって灯籠も移り変わっていくんですね。

鎌倉時代までの灯籠の遺品数がものすごく少ない理由だね。
飛鳥時代はかなり硬い石を加工したけど、それは百済からの渡来人が造ったもので日本にはその技術を伝えなかったみたいで。平安時代の末まで柔らかい石を加工してたから石造品の遺品数がものすごく少ない。
そのあと平安時代末から鎌倉時代初期にかけて、日本と宋の関係が良好で交流が随分あった。特に有名なのが東大寺で、東大寺が平安時代末に燃えて重源が再建を任された。重源はそれまで宋で度々仏教を学んでいたけど、段々宋の国力が弱くなってきてお寺がものすごく荒廃していたから日本から材木を送って再建までした。
それを経験していたから東大寺を再建する時、日本より技術が高い宋から銅の鋳物師と石大工を派遣してもらえて、石大工は再建後は日本に残った。その息子が父親の功績を書いた碑が残ってる。自分の両親の供養のために造った笠塔婆で、父親が寧波出身だって書いてある。
それが石工集団の“伊派”で何代も続いていく。そこらへんから鎌倉時代の石工技術が向上していく。そこで日本独自に蕨手様式のものや六角形のものが生まれたりする。

──中国との関係など知らないことがいっぱいです。

寧波のほうにも石像品調査に行ったよ。
東大寺は江戸時代にも燃えてるから、本当に現代の東大寺に残ってるのかどうかを。
東大寺の大仏は現在は胴体より上は江戸時代のもので銅だけど、鎌倉時代の復興時に両脇侍と四天王像と石獅子は石でできてて、当時の石工が日本の石は作りにくいから寧波から石を送って造った。南大門の裏にある石獅子だけ、昔は門のところにあったから焼けずに今も残ってる。それが中国の宋時代の石獅子とものすごく様式が似ていて、寧波に調査に行ったとき石の素材が一緒だったから、やっぱり石を日本まで送ったんやってことがわかった。

──最後の質問なんですが、今後石工芸でしていきたいことはありますか?

色々やらせてもらってるからいいんだけどなあ(笑)
機械を使えば今まで不可能だったアイススプーンとかつくれるけど、あんまり機械を使いたくはない。最終工程を全部手でやるのはうちくらいで、周りでは段々減ってるので石工芸で今後こういう風に手でやる人がもうちょっと増えて欲しいなと思う。


職人interview
#62
西村石灯呂店
西村大造

文:
鈴木穂乃佳(基礎美術コース)

撮影:
中田挙太

西村石灯呂店 HP:
https://kyoishikumiai.jp/wp/archives/shops/株西村石灯呂店

職人interview
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石灯呂|大学時代で学んだ家業の貴重さ

かつて良質な花崗岩(かこうがん)の産地であった北白川の自然の中に工房を構える西村石灯呂店。私たちの大学の先輩にもあたる、5代目当主の西村大造さんにお話をお伺いしました。
西村さんは機械をほとんど使わず、手仕事で石工芸品を造っておられます。カンカンとリズムよくノミが石を削る音を遠くに聞きながら、笑顔が絶えない取材になりました。