舞妓の御用達
#08


京都伝統伎芸復興財団 01

舞妓、芸妓さんの存在は知っているけどどんな生活を送っているのか、どれだけの職人さんが関わっているのか私たちにとってそれは謎に包まれたままでした。
そんな“気になる”気持ちから舞妓さんの頭の先から足の先まで徹底解剖する企画がスタート。
この記事を通して、日本に残った文化“美しい謎”を一緒に解明していきましょう。

第8回 京都伝統伎芸復興財団 榎本直樹さん

第8回目は京都で芸事をしている方々を支援している京都伝統伎芸復興財団の榎本さんに花街の詳しいお話を伺いました。

京都伝統伎芸復興財団とは京都の伝統文化や花街が誇る伝統伎芸の保存・継承を目的として発足され、主に舞妓さんが襟変え(舞妓を卒業し芸妓になること)をするときの着物や鬘(かつら)の支援や、五花街で行われる“をどり”の運営をしています。
また、年々京都出身の舞妓さんが減っており地方出身の舞妓さんが増えているため京都の文化を知ってもらうためにバスツアーを開催したりしているそうです。

上で記載した通り、年々舞妓さんや芸妓さんは減っており1955年に674人いた芸舞妓は2005年には193人にまで減り現在はもっと人数が少ないと言われています。
ここまで人数が減っているため、花街の需要と供給のバランスは取れているのかを伺うと芸舞妓が減る一方、旦那衆(お茶屋のごひいきのお客様)の数も減っているため意外とバランスは取れているそう。

また舞妓さんの出身地は北は北海道、南は九州まで幅広くいて特に東京や神奈川、福岡が多いことがわかりました。
そのため、踊りや三味線のお稽古の他にも方言や話し方の訓練も徹底的にしているそうです。

次に花街の由来についてです。
花街は祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東の5つに分かれています。


祇園甲部

江戸・寛永年間から寛永八坂神社の門前で茶屋街として栄えてきた京都でもっとも大きな花街。
舞踊は京舞井上流で春には「都をどり」、秋は「温習会」があります。
紋章は八個のつなぎ団子に“甲”の字で元々八つの町内からなっていたことから団子は八個だそうです。


宮川町

四条以南の鴨川が八坂神社の神輿(みこし)洗い神事が行われるために“宮川”と呼ばれていたことからこの名前がついたそう。
四条河原発祥の出雲阿国(いずものおくに)の歌舞伎踊りの時代に始まったとされています。
舞踊は若柳(わかやぎ)流で春は「京おどり」、秋は「みずゑ會」があります。
紋章は三つ輪で、明治時代、寺社と町屋と花街の三者結合をイメージして定められたそう。


先斗町

1712年頃から、鴨川と高瀬川の間に作られた新河原町通に、高瀬舟の船頭や旅客目当ての旅籠(はたご:宿屋)やなどができたことが始まりとされ、幕末から現在のような花街となって繁栄してきたそう。
舞踊は尾上流で春には「鴨川をどり」、秋は「水明会」があります。
紋章は鴨川に接する花街らしく舞い飛ぶ千鳥です。


上七軒

室町時代中期に北野天満宮再建に使った余材で七軒の茶屋が建てられたのが起源とされ1587年に北野大茶会を催した豊臣秀吉がその名物の御手洗団子を気に入り、茶屋株が公許されて以来茶屋街となったとされています。
舞踊は花柳流で春は「北野をどり」、秋は「寿会」があります。
紋章は豊臣秀吉のエピソードにちなみ、丸く交差する五つ団子です。


祇園東

1881年に祇園甲部から分離独立し、祇園新地を経て祇園東となったそう。
舞踊は藤間流で「祇園をどり」は京都花街で唯一秋に行われる公演で、夏には長唄やお囃子などの発表会「ゆたか会」があります。
紋章は祇園甲部と同じ八個のつなぎ団子です。

(京都伝統伎芸復興財団ホームページ参照)

五花街の違いや発足理由、紋章の由来などおわかりいただけたでしょうか。
各紋章はその花街にあるお茶屋やお店に掲げられている赤い提灯に描かれているため、花街を訪れた際は提灯に注目してみても面白いかもしれません。


舞妓の御用達
#08
京都伝統伎芸復興財団
榎本直樹

文:
中喜多真央(空間デザインコース)

イラスト:
樋田みち瑠(油画コース)

京都伝統伎芸復興財団HP:
https://www.ookinizaidan.com

舞妓の御用達
#08


京都伝統伎芸復興財団 01

舞妓、芸妓さんの存在は知っているけどどんな生活を送っているのか、どれだけの職人さんが関わっているのか私たちにとってそれは謎に包まれたままでした。
そんな“気になる”気持ちから舞妓さんの頭の先から足の先まで徹底解剖する企画がスタート。
この記事を通して、日本に残った文化“美しい謎”を一緒に解明していきましょう。