HANAO SHOES JAPAN
#01


北海道|アットゥシ|藤谷民芸店

伝統的な手仕事は「日本の美」として世界に誇れる、なくしてはならないものと私たちは日々感じています。HANAO SHOES JAPANは織物・染物の伝統が多くの人の目に触れ、見る人それぞれがゆかりある地場の手仕事に興味を持つ機会となるプロジェクトです。
ここでは47都道府県全ての工房にインタビューをお願いし、ここでしか聞けないお話を聞いています。

今回は藤谷民芸店 2代目 藤谷(ふじや)るみ子さんにお話をお伺いしました。

「食べていくために」から「やりたいことがいっぱいある」今

──お店はいつから営業されているのですか?

1982年から30年間萱野茂二風谷アイヌ資料館の中で、実演販売を夏の間だけしてました。5月の連休から11月の中頃くらいまで。もう雪が降ったら、店を閉めて家にこもって作業(笑)。

──1982年にお店をオープンするまでは、ずっとお家で。

そう。お家でただひたすら織りだけ。
昔は、オヒョウ(ニレ科ニレ属の落葉性の高木)でなんでも作ってました。畑の収穫には四角い籠を、山に行く時は小さく畳める袋を、山菜を入れたり穀物を保管したり……。やっぱり食べ物が1番大事だったから。
でも今の暮らしでは使わないし、今では“伝統を守ってきた籠”だから高い。昔は、次の年に自分たちが使うための冬支度として作っていたけど、今の私たちは「伝統を守る仕事」として作っている。
食べていくために選んだ仕事だけど、今はやりたいことがいっぱいある。店の中にあるものは、作ったけど売らずに残しているもの。食べるだけしか売らない。
1982年までアットゥシの反物(オヒョウの内皮の繊維を糸にし、織ったもの)は需要が高かったんですよ。

──北海道って土地が広大なので、同じアットゥシでも模様や生地は違ったりするのですか?

染め、刺繍、パッチワーク……。ほんと色々あるよ。他所から来たお嫁さんが、自分の土地の着物を持ち込んでくるから面白い。
刺繍で装飾した着物を「チカラカラペ」と呼ぶ。アイヌ語で“自分で作った着物”という意味。お店の暖簾にも書いてるけど、「イランカラツペ」は“こんにちは”。
「テテカラペヌカラヤン」は“手で作ったものを見てください”。


素材の確保から加工まで、すべて1人で

──藤谷さんは、お一人でお仕事をされているのですか?

ちょうど今、育成授業で4人に教えてて。去年は織りを、今年の4月からは着物製作に入る。目で見て自分で縫って、若い人たちが覚えるということは凄く良いことだよね。
自分の子が継がなくても、誰かに教えていれば誰かがやってくれる。特定の弟子は持ちたくない。
やっぱりここで1人で長くやってきたから自分のやりたいように、ましてや70歳超えたら欲張ることないと思う。やりたい仕事を好きなようにやってれば良いかなぁ。
ただ、自分の生徒さんにはちゃんとした基本を学んだ上で、こだわったことをして欲しいな。やってくれるかやってくれないかわからないけど、私の言葉だけは伝え残して。
やっぱりここはこうなんだよ、他にない物があるんだよって。
そして、仕事にするしないは別問題。技術があるだけじゃ職人じゃないからね。
アットゥシの職人になるためには、木の皮を一枚一枚剥いで処理することを覚えて、染め、糸作り、織り、加工まで。私たちの仕事って一人作業なんですよ。分担して流れ作業でやってる工房はないんです。

──一人で、素材の確保から仕上げまでをするんですか!?

ほんとに全てのものを一からやる。だから全国古代織産地連絡会に関わった時、会の皆さんびっくりしてました。やっぱり昔から「自分たちで作って自分たちで使う」っていうのが、原点なのかなと。

──暮らしの中に、そもそもあったものが文化になり、伝統になったのですね。

そう。でもね、オヒョウの着物だけは日常で着る物ではなかった、晴れ着で。

オヒョウの木って非常に貴重品なんですよ。今だったら車でどこへでも行けるけど、昔の狩猟民族は山を歩いて狩猟している途中にオヒョウの木があったら一部だけを持ち帰っていた。

木の皮は木の着物。それをもらうから、ほんの一部分だけ。少しずつ頂いて着物一枚分の材料が溜まったら沼に入れて柔らかくしたり。

本当に一年掛りで大変なんです、アイヌの着物の中ではとても貴重品で。だから一家の主人か息子に着せる為に作られた晴れ着なんです。女性がオヒョウの着物を着た写真がないのもそのため。女性は割と木綿とかを着てたかな。

──女性が男性のために作って着せていたのですよね。

そう。やっぱり今のように物のない時代だったから、どこに出ても恥ずかしくない物を着させてあげようって。こういう物を着てた時代は、食べる物も着る物も日用品も全て独立していた。

だけど私の時代はお金を得るための仕事となった。初めは反物だけを作って買ってもらう人だけに売ってた。母親は「どうせ織物やるんだったら私のとこおいで」って泣き脅し。子どもの頃は当たり前のように家で糸作りの作業をさせられて、母が作業の合間に織り機を離れたら悪戯してたんです。

──るみ子さんが悪戯していたんですか(笑)?

そう(笑)。でも、あるとき親が入院しちゃって、中学3年生の冬休みに、押入れから母の織り残しが出てきた。どういう訳かすぐ織ったのよ。

織るために必要なことは近くの年寄りに教えてもらって、中学に通いながら帰ってきたらすぐ織ったりしていた。織ったものを売って、ちょっとでもお金を母親にやれば「家を出ていい」って言われるかと思ってた。

けれども「どうせ織物やるなら家でやれ」って言われてね。でも今は感謝している。これが自分の仕事になったからよかった。


煮る、沼につける、大変だけど当たり前

──工程は、さっき「お一人で全てしていらっしゃる」と聞いたのですが、森にも入っておられるのですか。

今は森には入っていなくて息子に行ってもらってます。

主人が生きていた時は一緒に行って山の中で外皮と内皮を分けていたの。主人が亡くなってからは息子についていっていたのよ。

でも自然林だから私の背丈くらい笹が伸びてるの。そしたら足が引っかかって転んだ。2年は息子と一緒に行っていたけど3年目から

「いいって、俺、皮持ってくるから」って言われて、今はそれ以降の二番目からの工程を家の前でやってるの。今は無理しなくて山に行かなくても息子が山に行って、皮を剥いで持ってきてくれるから。

──皮を剥いだら、次はそれを煮るのですか。

皮を剥いだ後は内皮と外皮に分ける。外皮を剥がすのはとても大変なの。剥がしたらそれを煮たり沼の中に入れたりするの、それも1mもある暗い深い沼で。上に浮いたら柔らかくならないから、入れる時は上に柳の木を置いとく。

──それを2、3週間放置するのですか。

発酵させるのよ、その中で。沼は季節問わず発酵させてくれるのよ。

──この工程のなかで一番苦労する点、神経使う点などありますか。

一番は内皮を一枚一枚剥がすところ。

糸作りに入る前に一枚の皮に何層にもくっついているのを剥がす作業を「糸開き」って言うんだけど、濡らしても剥がれないから揉み込んで、テッシュ1枚を探るように手を入れて引いて。それが1番大変、まぁ全部大変なんだけどね。大変だけどこれが当たり前だと思ってるから。オヒョウは触れば触るほど柔らかくなるから、こうやってお店に出しとけば、みんな触ってくれてどんどん柔らかくなってくる。

──このできた糸は絡まっていくのですか。

そうです。そして今度は「はた結び」で結んでいきます。


昔は厚地が現金みたいな物だった

──その糸づくりを子どもの頃にお母様に教えてもらったのですか。

そうです。時間がある時は母親の横糸作りをさせられた。

だから学校に帰って来てから「勉強せえ」って言われたことがない。今思い返すと幸せだったと思うんだけど。おばさんが子どもの頃はみんなやらされてたから不思議じゃなかったのよ、この土地で織ってない家ってなかったから。商店やってる人とか、農家の人とかも一応やってた。私のところも農家だったから、母親は昼間農家やって、夜は糸の準備やって。いつ織ってもいい状態にはしてたけど。

──お母様が織ってた時代は、生活の中でですか。

もちろん。それが現金と同じ扱いをするくらいの物だったんです。厚地を売ったら何十尺で布団が買えるとか。だからおばさんの頃は厚地が現金みたいなものだった。

──どのくらいのオヒョウの量から一反出来るのですか。

1キロあれば十分。糸にしてね、1キロ200メートルくらい。だから糸にするためには私たちは1.5キロあれば間に合うけど、初めてやる人は無駄が多いから2キロくらいは用意します。

──それって一夏でとるんですか!1反分を!?

今私たちは木を丸ごと買うから、木の質が良ければ一夏で2枚や3枚とれます。

今私たちは上までとれるから、木を倒して剥ごうと立木で剥ごうとこちらの好きなように出来て。

残った木は森の邪魔にならないように切り倒して小さく切り刻むのが条件なんです。昔の人からしたら今の私たちは条件の良い状態で木を買えます。もう時効になるからいいけど、うちの母親たちがオヒョウをとる時は盗伐でしか手に入らなかったですから。

──盗伐?

木の皮だけを獲ってくる。でもそうしなければ手に入らない時代だった。

今は幸せなことに組合で手に入るのよ、この地元の人はやろうと思えば誰でも出来る。二風谷はこの木の皮を触れる機会や、事業が多くあるの。他の地域の人からすると「羨ましい」って、そのくらい組合がしっかりしてるの。


言葉だけは伝え残す、アイヌの文化

──アイヌの文化やアットゥシを教えてらっしゃるのも、若い生徒さんたちなのですか。

いや、教えてない。教えてるのは私たちの年代です。

──そうなんですね。

アイヌ文化は「神の国に返す」っていう風習だから、意外と物が残ってないのよ。アイヌ文化って文字のない交渉文化だから。

それには古い物は神の国に返すっていう風習もあって、火の神様を通して返す物があったり、朽ち果てるまでとか。

だから習慣の違いなんでしょうけど、皆さんとても勉強家なのがすごいなって。

考えてみたら、うちらが伝統的工芸品に指定を受けるために苦労したのがそういうことだったんだなと思ったんです。国外の大学の先生に手伝ってもらって、海外の資料を調べて、そこに自分たちの地の歴史が残ってたから指定を受けることが出来た。いろんな国の学生が持ち帰ってくれたおかげ。工芸品の指定を受けるのは本当に大変だったけど、婆ちゃんとか母親の時代にこういう勲章的なものはいただけなかったから、無理矢理織らせた母親に感謝しなくっちゃ。


HANAO SHOES JAPAN
#01
藤谷民芸店
藤谷るみ子さん

文:
宮川滉清(文化財保存修復・歴史文化コース)

撮影:
藤谷民芸店

HANAO SHOES HP:
https://wholelovekyoto.jp/category/item/shoes/

藤谷民芸店

場所:〒055-0101 北海道沙流郡平取町字二風谷76-7
TEL:01457-2-3408
営業時間:9:00〜17:00
休業日:不定休(店舗営業は4〜11月末まで)

HANAO SHOES JAPAN
#01


北海道|アットゥシ|藤谷民芸店

伝統的な手仕事は「日本の美」として世界に誇れる、なくしてはならないものと私たちは日々感じています。HANAO SHOES JAPANは織物・染物の伝統が多くの人の目に触れ、見る人それぞれがゆかりある地場の手仕事に興味を持つ機会となるプロジェクトです。
ここでは47都道府県全ての工房にインタビューをお願いし、ここでしか聞けないお話を聞いています。

今回は藤谷民芸店 2代目 藤谷(ふじや)るみ子さんにお話をお伺いしました。