藩に納めるため人の手で染め織り上げられた
──大島紬は、地域とどのような繋がりがある染織物なのですか。
元々、奄美大島の大島紬は 1300年前から続く奄美(あまみ)の織物で、当時は産業が盛んだったというよりは、「昔から作り続けられてきた織物」という理由で残っているように思います。
江戸時代中頃から薩摩藩に支配されるようになると、藩に納めるものとして、大島紬は作られていました。当時、藩からの「紬着用禁止令」で島民は紬を着てはいけなかったので、島民が普段着として身につけられるものではなかったんです。
──ではその税として藩に納める時には着物に仕立てず、反物として。
はい。薩摩藩が交易の材料として外貨を稼ぐために、島民が薩摩藩に年貢として納めていたという形になります。
1年かけて織り上げられる手仕事の温かさ
──大島紬は染織の「泥染め」が有名だと思うのですが、どういった工程で作られていますか。
大島紬は伝統的な工芸品になるので、メインの工程が決まっています。
元々は産地内で大島紬の原料となる、絹糸を作っていました。ですが明治頃から大島紬をつくる量が増え、今は糸を仕入れています。
どれくらいの糸を使うか計算するために、まず図案を書きます。方眼紙に図案を書いていくのですが、斑点の大きさ等を細かく設計して、糸量を計算して用意します。
図案が出来たら、必要な糸を用意して糊で固めていきます。
そして糸に柄をつけるために「締機(しめばた)」という作業で、織っていく工程があります。これは大島紬で一番大事な作業ですね。
大島紬の精密な模様を作るためには締機の作業が一番重要になってきます。
この締機をすると、「絣筵(かすりむしろ)」という生地が出来上がります。 この生地は奄美だと大体泥染めにしていきます。そして泥染めしたものをほどくと、染まっているところと染まっていないところで黒と白になります。
──締機について詳しく教えていただきたいです。
「締機」は図案で指示された柄になる部分を染まらないように織り締める作業です。織り締められた部分はその部分だけ染まらないので、絹糸が出ている部分だけが染まります。
──どれくらいの時間かかるんですか。
「締機」の工程は柄にもよりますが、1ヶ月から 2か月くらいです。 天候にもよりますが泥染めも大体1ヶ月ぐらい。図案など他の工程も色々あって、最後に機織りをして織り上がるのに1年くらいかかりますね。
──そうですよね。泥で染めることを初めて知った時にとても衝撃を受けたんですが、かけている手間の多さに驚いています。
締機は想像つかないですし、実際に見て頂いてもよく分かってもらえないことが多いです。
この前テレビ局の取材陣が来たんですけど、締機を何回も見せてもなかなか伝わりづらい。取材陣の理解力がないとかではなく、誰が見ても本当に分かりにくい作業なので。
でも泥染めはすごく分かりやすい。ビジュアルにも訴えかけられる。 なので大島紬というと泥染めを切り取られる場合が多いです。 ただ大島紬を伝統的工芸品として見た時に、泥染めは必須条件に入ってないので、泥染めするかしないかは伝統的工芸品としては全く関係ないんです。大島紬としては、何で染めてもかまわない、ということです。
──はじめ商事さんから見た、大島紬の一番の魅力ってどういうところですか。
大島紬の魅力はやっぱり模様をつけた糸の柄を合わせて緻密な柄を織っていくところです。「絣」という模様を糸につけて、それを人間の手で合わせて織って。機械にはできない作業になるので、そこが魅力ですね。これだけ時代がどんどんハイテクになっているのに、人間にしかできないというのが面白いかなと。
──はじめ商事さんは、締機を専門的に扱っている会社さんなのですか。
元々うちのおじいさんは締機の職人で、おばあさんが織工(おりこう)でした。
大島紬は多くの工程がありそれぞれ専業の職人がいるのですが、今は職人が減っているので、昔みたいに分業ができてなくって。うちの会社は「織元」という製造の会社になるのですが、デザインから製造までさまざまな工程を行っています。
後継者のことを考えたとき、効率は悪くなるんですけどできるだけ全ての工程ができたほうがいいと思って、染めも織りも全部出来るようにしています。 さらに今は販売までやっています。専業で一つの工程だけやっていればいいっていうのは昔の文化になりつつある気がします。
──紬というと全国に様々なものがあると思うのですが、大島紬の職人さんにしかできないこと、あるいは他とはここが違うという部分は何かありますか。
そうですね、締機を使った絣むしろの製作というのは大島紬が生んだ技術になります。締機を開発してより細かい柄も正確に、大量に作れるようになった、というのが大島紬の特徴です。
締機が生まれて、他の産地との違いができ、世界中でもそこまでしている織物はないと思っています。やろうと思えばやれるんでしょうけど、割に合わない作業なのであまりにも大変すぎる。 それでどの産地も真似をしない。
──今のお話を聞くと、大島紬の印象が変わりますね。
あと、やっぱり大島紬を勉強する方は「締機」から勉強したほうがいいと思ってます。締機が分かると全体の工程が見えるので。 指揮者みたいな形で流れを作っていき、それをもらってみんな作業していくっていう形になるので。
戦争で一度なくなるも繋ぎ止められた
──大島紬の歴史の中で途絶える危機、エピソードなどありましたか。
そうですね。戦争で一度、大島紬は生産反数がゼロになっているんです。太平洋戦争で大島紬が製造出来なくなった時期があって、さらに戦後、奄美が米軍の統治下にあって日本から切り離された時期は、ほぼ大島紬の製造はなかったですね。 戦争疎開で奄美から鹿児島本土に渡った方たちの中で、何とか大島紬を残そう、作ろうとはしていましたけど、奄美の生産量としたら一回ゼロになっています。
──元さんは最初から工房を継ごうと決めていたんですか。
いや全然決めてませんでした。全然違うことを勉強していました。
──継ごうと思われたきっかけってなんだったんですか。
大島紬のことを全然知らなかった。家がやっていたけど、本社が奄美大島で製造し、福岡の方に支店があって。うちの家族は福岡支店で育ったもんで。
なので大島紬作ることに対して興味の持ちようがなく。商品として積んである大島紬を見ても何の感想も持てなかった。
それが、成人式の時、父が初めて着物を作ってくれて、大島紬を着てみるとすごく着心地が良い。ただその時はコスプレ的な感じで、良いもんだ、高いものを着てる、みたいな優越感があったくらいだったんです。 その後大学 3 年生の夏休みにですね、ゆっくりできる最後の夏休みになると思って奄美大島に 1ヶ月くらい帰っていたんです。その時にすごく暇していたら、うちの父が「じゃあ作っているとこ見に行くかー」みたいな感じで連れて行ってくれて。
──そうなんですね。実際行ってみたらどんな感じでしたか。
おじいちゃんおばあちゃんがやっているのだと想像していたら、若い人が後継者育成の勉強をしに来てる場所がありました。そこには自分と年が変わらない大学を卒業してすぐの人や、高校卒業したての人などが大島紬について、機織りや締機の勉強をしていたんです。
作っている大島紬の柄や色などは自分が見たことないものばっかりで。こんな風にしていいんだ!と思い、すごい目から鱗でした。
もしかしたら大島紬って面白いのかもしれないと思いました。これをきっかけにいろいろ考えて、一年間大学を休学し、当時奄美にあった大島紬の後継者育成期間で勉強することにしました。
その後大学に復学し、卒業後は呉服の流通を学ぶため京都の呉服問屋で三年ほど勤め、島に帰って現在にいたります。
──これから HANAOSHOESJAPAN に関わるお客様に向けてのメッセージをいただいてもよろしいでしょうか。
大島紬を知るきっかけの一つになってくれたらというのが一番です。鼻緒だとあまり大きな柄は見えないですが、それを通じて奄美大島や大島紬を知るきっかけになったらありがたいです。 奄美は最近世界遺産登録も決まりました。いろんなメディアで大島のことが取り上げられると思いますが、その時は必ずセットで大島紬がついてきますから、これを契機に知っていただいて、実際に奄美まで来ていただきたいと思っています。
HANAO SHOES JAPAN
#03
はじめ商事
元 允謙さん
文:
宮川滉清(文化財保存修復・歴史文化コース)
撮影:
はじめ商事
HANAO SHOES HP:
https://wholelovekyoto.jp/category/item/shoes/
はじめ商事
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場所:〒894-0062 鹿児島県奄美市名瀬有屋町30-1
TEL:0997-52-1741
HP:https://hajimeshoji.com/
ここでは47都道府県全ての工房にインタビューをお願いし、ここでしか聞けないお話を聞いています。
今回は、はじめ商事 3代目 元 允謙 (はじめ ただあき) さんにお話をお伺いしました。