一度は途絶えかけた紅花の歴史
──始めに、よねざわ新田さんの創業にまつわるお話をお聞きしたいです。
私達の工房がある米沢という地は、上杉家が治めた土地なんですが、今から250年くらい前に上杉家の九代藩主上杉鷹山公が殖産振興の一つとして、織物を推奨させるという流れを構築したんです。
それは、当時の米沢藩はとても疲弊した状態で、改善するために織物業を推奨したんですが、結局それを担ったのが下級武士とその家族で、その流れでうちの家系も織物に従事することになったようです。 その後、明治維新となり織物に従事していたので、その延長で起業できたということでしょう。
──地域の歴史と深い関わりがあるお話ですね。次にどういった工程で作られているのかお聞きしたいです。
製作工程としては、一貫生産化を進めています。絹糸を手配して、染色から織りあげます。
──紅花染は紅花を紅花餅に加工されると伺いました。それも職人さんたちがやられているのですか。
工房のみんなで育て加工まで行っておりますが、メインでの使用染料は、山形県紅花生産組合の方々にお願いしています。現在も山形県内10カ所以上の地域で育てられております。
──紅花と織物の関係は、どのように繋がったのですか。
250年前、鷹山公(ようざんこう)の時代からの織物と紅花染の繋がりは江戸時代にはなかったと言われます。
それは、紅花が「換金物」として出荷されていたため、山形では染色することはありませんでした。
その後、明治以降になると化学染料が輸入され安価で染色することができ、発注生産も減少、衰退してしまいます。
その後、紅花染を研究していた理科の先生に祖父と祖母が出会い、「紅花を染めてみないか」と声をかけていただいたことで、新田紅花染はスタートしました。
そして、当時の農家さんをはじめ、山形大学の先生や県の協力などさまざまな方々に支えられて昭和34年代後半に紅花染、紅花紬を発表します。
そのことが、現在に繋がっております。
昔は金と同等の価値があるといわれていた
──紅花の歴史は、どのくらいですか。
紅花は、原産国がエジプトなどといわれ、シルクロードの航路で日本までやってきました。ミイラに紅花が添えられるなど、当時から特別なものとして扱われていたようですね。
西暦200頃には日本にあったといわれ現在、邪馬台国の有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡から大量の紅花の花粉が出土しています。そのように大陸から日本へ、そして山形へやってきたのですね。それが、今も花が咲き染色している。4000年以上の歴史を考えると感慨深いですよね。
──紅花染について調べている中で、紅花をお餅にしたものを交易で京都に送って、その帰りに京都の人形を船に積んで戻ったということを知ったのですが。
そうですね。紅花って昔は金と同等の価値があったそうです。
江戸時代には北前船という、北海道から日本海を通って各港をめぐる貿易船があるんですが、その船にはなんでも載せるんですね、昆布や米やさまざまな産品など。
でも、紅花は「紅花船」という船に、紅花の紅花絣(紅餅・花餅)しか載せない。高価で特別なものだから他のものは混ぜない。
だから、荷下ろしをすると中が空っぽになる。京都に行く場合、敦賀(つるが)で荷下ろしをして、雛人形などいろいろな名品を積み込み帰港するんですね。
百色の色相を生み出す紅花
──職人さんから見て、紅花染の一番の魅力ってなんですか。
それはやはり、色ですよね。
──紅花の染めで百色の色相を表現できると聞いたのですが、どういう意味ですか。
色は色素の重なり、蓄積ですよね。
例えば白に黄色を染め、そこに赤を染めたらオレンジになる。
化学染料は、染料液をオレンジにしたもので染めますよね。植物染料の場合は、それぞれ植物によって違うわけです。温度をかけるもの、かけないものがある。染め方も媒染(ばいせん)により、鉄をかけるのかアルミなのか。だから順番でやっていくことで、色の蓄積によって色を出すということです。
紫を表現するにも、藍で染めてから紅花の赤を重ねる紫と紫根染(しこんぞめ)の紫とでは違いがありますね。
そのように、個々の色素量や染める時期、時間、水温などさまざまな要素で仕上がりが変わります。だから、色が毎回違うため「百色の色相」ということです。
──それぞれ赤色一つとっても違いますよね。
全然違いますね。
──紅花で染めた織物は、みなさんどういった使い方をされるのですか。
現在、主に和装関係に多く使われていると思います。
あとは、神事などの儀式関係といわれます。
──染めと織り、両方していて、苦労することはありますか。
それは、どこの場面でも気を使わないといけないことですね。
染めであれば、色素抽出からはじまり、糸も染めやすい状況にしてあげないといけない。
糊をつけ、織りやすくする仕上げなどさまざま。
織であれば、織るところ以外も「整経」という糸を並べる工程。一本でもおかしくなると、経糸(たていと)に筋がたって反物に不具合がでるんですよ。完成品をみると何気ないですけど、さまざまな工程を各担当がきちんとしているからこそ出来上がります。
西陣で修業した2年半
──大学を卒業されて職に就かれたんですか。
はい、京都の西陣の帯屋で修行したんですよ。
──外に出て修行するというのは、新田家代々続くことなんですか。
そうそう、うちは祖母や父、叔父も外で修行してからうちに帰ってきています。
──何年ぐらい修行に行かれたんですか。
私は 、2年半。本当は3年の予定でしたが、修行先から「もう帰れ」って言われて。笑
──それはどういった理由ですか。
ありがたいことに「もっと、いていいよ」という流れになっちゃうんですよ。そうなると辞めるタイミングがなくなるから、もう早く帰れっていう親心ですね。
さまざまな方に出会いかわいがって頂き、そうなってくるとなかなか抜けられなくなっちゃうので、それだったら「辞めます、辞めさせてもらいます」と。
当時所属していた会社は、さまざまな役割ができている会社でした。製造だったら図案を書く人もいたり、機(はた)の動きを構築する係もいたりでいろんなことを知ることができて。織るだけではなかった。延長でさまざまなパイプができ、今でもその方々とは仲良くしています。
──京都に行かれた身として、京都の織と、こちらの織で違うなと思ったことってありますか。
実は全く違うんですよ。言葉や設備も中身、動きも違う。
どうしても修行って、その技を盗むという風に思われがちですけど、実は違う。1年2年いてもその技術って盗めないんですよ。その時、よく分からないですし。
今も思うことは、修行という段階で実家へ帰る(辞める)ことが前提でありながら教えてくれるということは本当にありがたかったです。
新しい職人を育てることで次世代につなげられる
──新田さんで働いていらっしゃる職人さんはどれくらいの年代の方ですか。
年長者で 80歳以上もいます。今は、その方のお孫さんも一緒に働いていますし。
──えー!凄い。
ありがたいことに、みんな長く働き続けていただいています。
新入社員も入り、下が 18歳になりますね。
平均年齢としては 50歳くらい。
常々思いますが、私が生まれる前や小さいときから働いている方と一緒にものづくりができるなんて幸せですよね。
──ところで、そのお孫さん何歳で工房に入られたんですか。
21歳の頃からです。最初は大学に通っていて、「アルバイトがしたい」という話でした。
それがしばらくして、「大学に行くより、自分はこの仕事をやっていきたい」と言っていただき、社員になりました。
──やりたいことができる環境があるのがすごいなあ。
これからも、ものづくりを継承し繋げていくためには、人が育ち、次世代へとまた新しい風が吹いて、そこから新しい商品が生まれることが大切だと思っています。
──ほんとに今日見せていただいて、今の時代に皆さんが同じ場所で同じ屋根の下でお仕事されてるっていうのが、すごくすてきなことだなと思いました。
そうですよね。私も思います。
子供の頃から機音を聞いて育ち、ものづくりが好きで、職人が楽しそうに仕事をしている姿を見ていました。
それは、工房と住まいが同じ場所だからこそ「将来やるんだろうな」と思い、学校を卒業して、修行して、跡を継ぐという流れでした。
これからも、時代を感じ柔軟にみんなでものづくりに励んでまいりたいと思います。
HANAO SHOES JAPAN
#04
よねざわ新田
新田源太郎さん
文:
宮川滉清(文化財保存修復・歴史文化コース)
撮影:
よねざわ新田
HANAO SHOES HP:
https://wholelovekyoto.jp/category/item/shoes/
よねざわ新田
—
場所:〒992-0053 山形県米沢市松が岬2丁目3−36
TEL:0238-23-7717
HP:https://nitta-yonezawa.com/
ここでは47都道府県全ての工房にインタビューをお願いし、ここでしか聞けないお話を聞いています。
今回は、よねざわ新田の新田源太郎氏にお話をお伺いしました。