京都のスープ
#30


京菓子司 金谷正廣

「和菓子をきっかけに京都の文化を知る」
昔からの伝統の味を守りながらも新しいことにも挑戦する金谷正廣の6代目店主・金谷亘さんにお話を伺いました。

和菓子をきっかけに京都の文化を知る

「和菓子を食べてもらうことは、そんなにハードル高くないと思うんです。日本の文化とか京都の文化に興味を持ってもらうきっかけや足がかりを作るのにお菓子はいい手段だと思います。」
昔からの伝統の味を守りながらも新しいことにも挑戦する金谷正廣の6代目店主・金谷亘さんにお話を伺いました。

晴明神社からほど近い、堀川通から少し西に入ったあたりに「京菓子司金谷正廣」はあります。
初代にあたる金谷庄七さんが安政3年に創業され、のちに改名されました。金谷庄七さんは石川県の金物屋の七男坊であり、京都にて菓子業を始めました。
西方尼寺に出入りを許され、同尼寺に伝わっていた真盛豆の製造を許され明治初年より販売を開始されます。
現在6代目の金谷亘さんは、亡くなった祖母のピンチヒッターとしてお店を手伝い始めたと言います。
「僕は元々契約社員みたいな仕事をしていたんです。おばあちゃんが入院中は在宅勤務だったので、昼間は8時間ぐらいお店を手伝って、夜は6時間ぐらいパソコンにむかって仕事するみたいな日々を過ごしました。その後おばあちゃんは亡くなってしまって、そのままお菓子屋が本業になりました。大学を卒業した頃はここを継ぐなんて何も考えていませんでした。」

お店の看板商品である真盛豆は、炒った黒豆にすはま粉(大豆の粉)と砂糖蜜を重ね合わせ、最後に青のりがまぶしてあるお菓子です。

室町時代の高僧真盛上人がご考案され、秀吉の時代には北野大茶会で千利休がお使いになられました。

「もともと当時の真盛豆は塩味で大根の葉を乾燥させたものをまぶしたお菓子だったんです。うちの真盛豆は西方尼寺さんからお許しを得て、初代が銘菓として完成させました。お砂糖が庶民の口にも入るような時代になったこともあり、甘いお菓子にしたんです。」

また京都では、都から離れた所で取れた上質な食材が喜ばれたため、山で取れた黒豆と海の近くで取れた青のりを組み合わせたのだそうです。今の地産地消という考え方との違いに驚きました。


西陣織と和菓子の親密な関係

金谷正廣さんが店を構えるこの辺りは西陣のはずれにあります。
亘さんが小学生の頃にもカタカタという織り機の音が生活と共にあったのだといいます。西陣では独特のお菓子文化が発展したそうです。
「西陣ではお得意様や同業者さんの挨拶などでお茶とお菓子を出すという文化が根付いていました。なので、昔は木の箱にお菓子を入れて、商売をされているところに配達をしていたそうです。生菓子も菓銘がついた立派なものというより、お子さんに出してもパッとわかるようなかわいらしい明るいものが好まれていて、それが西陣スタイルとして残っています。」


お茶と全国の方に支えられて

そして、京都というこの土地には今も多くの和菓子屋があります。和菓子屋がこれだけの数やっていけているというのは特殊な状態なのだそうです。全国のお客さんに支えられているからこそある和菓子屋だと語ります。


「コロナになった時に京都に人が全然来なくなって店頭での販売が半分ぐらいに落ち込んでしまって。京都はお茶会が多く、各地域の1番偉い先生が月に1回京都へ学びに来られるんですね。そういう方たちがいろんなお菓子を買って持って帰りお稽古でそのお菓子を使うっていうのをしていたんです。その売り上げが半分ぐらいを占めてたんだっていうことに初めて気づきました。自分のところ以外の京都のお菓子屋さんもそれだけ全国の皆様に支えていただいているんだと思います。」


和菓子通して魅力を伝える

また、亘さんは和菓子を若い人にもっと知ってもらおうと様々な活動もされています。近年では京都市京セラ美術館で所蔵品をモチーフにした、コラボの和菓子も作っています。その絵を見た人が鑑賞体験をよりもっと深いものにするというのを大切にされていて、作品をパッと見ただけではわからない特徴を入れることを心がけているそうです。


「1番うまくいってると思うものは木島桜谷さんの《寒月》という作品をモチーフにしたお菓子で、狐が雪の上を歩いた足跡をお菓子にしたものです。『群青』っていう日本画で使う色があるんですけど、最近の研究でその色を焦がして使っていたということがわかったんです。なので2色の群青を使って焦がした部分とそうじゃない部分を表してます。そういうようなことを説明に書くことによって、あの絵そんなことしてたんやって思ってもらうことができて、もう一回見に行きたくなるようなことができたら素敵だなと思っています。」

亘さんは京都芸術大学(旧・京都造形大学)で学生時代を過ごされました。そこでの経験も、お菓子作りや自身の行動に大きな影響を与えているそうです。

「例えば、狐の絵のお菓子でもそうなんですけど、次の作品を提示されたら図書館に行って資料を読みますよね。そこに鞍馬でこの絵を書いたっていう情報があったら鞍馬にいきますよね。この絵をかいた作者はお酒を飲まず甘党やったらしいので、鞍馬でなんか食べてるよなって考えたら鞍馬にあるお菓子屋さんに話聞くぐらいはできます。っていうようなことをナチュラルにするタイプに育ったのは大学で学んだからなのかなと思います。考えて、研究して行動に移すってことを大切にしてやっていますね。」


さらに亘さんは日本文化を広めていくことも和菓子を通してできないかと日々模索しています。

「器を買うとか、着物を買うとかってちょっとハードルが高いでしょ。でも、「千利休が食べたお菓子なんですよ」って言って和菓子を食べてもらうのって、そんなにハードル高くないと思うんです。日本の文化とか京都の文化に興味を持ってもらうきっかけや足がかりを作るのにお菓子はいい手段だと思います。」

亘さんはホテルで和菓子を食べてもらい、少しでも伝統に興味を持ってもらうきっかけを作ろうと活動もされています。


裏方から表舞台へ

亘さんの今後の展望は和菓子屋が憧れの職業になっていくことだとおっしゃっていました。どうしてもお茶の席の裏方というイメージのある和菓子職人。そこを大切にしつつも、どうすればお菓子にも注目してもらえるかが肝になるのだと言います。

「みんな裏方として誇りを持って仕事をしています。お客様にいかに喜んでいただくかを全員が考えているからうまくいく世界なんです。でもそれがパティシエなどと違って『有名な和菓子職人』が出てこない理由なのかなと思ったりもします。伝統産業系全部に言えることやと思うんですけど、苦労をしているのが当たり前とか、職人は見て学ぶもんやみたいなところが前面に出てくるのって変やなって思うんです。もっといろいろな和菓子職人が出てきたら、こんなことができる可能性もあると思ってもらえるのかなと考えますね。子供が憧れるような職業になればよいですね。」


100年後も和菓子屋が残り続け、過去の歴史上の職業にならないために日々模索中の亘さん。現在もいろいろな企画が進行しているそうです。

「これからも思いついたことは全部やっていきたいので、みなさんのお力添えをいただければと思います。」

京都で160年以上続く京菓子司金谷正廣は、これからも西陣という地で和菓子の魅力を発信し続けてほしい素敵なお店です



京都のスープ
#30
京菓子司金谷正廣

文:
建木紫邑(クロステックデザインコース)

写真:
鈴木穂乃佳(基礎美術コース)

京菓子司金谷正廣さんHP:
shinseimame.shop

京都のスープ
#30


京菓子司 金谷正廣

「和菓子をきっかけに京都の文化を知る」
昔からの伝統の味を守りながらも新しいことにも挑戦する金谷正廣の6代目店主・金谷亘さんにお話を伺いました。