温新知故
#26


父の死、訪れた転機

京都のアートやクリエイティブ活動の最新事情を訪ねてみると、その奥には必ず伝統という財産が豊かに広がっていたりする。
いわゆる「古きを訪ね新しきを知る」という視点からではなく、むしろその逆、新しいものの向こう側にこそ垣間見えてくる京都の先人たちの、技や知恵。

この対談シリーズでは、若い職人さんやアーティスト伝統文化の世界ではない人からの視点も交えた異色の対談集というかたちで京都の伝統文化に新しい光を当ててみたい。

──たまと維新派と源氏物語に惹かれるという、かなり特殊な中学生活を経て、高校・大学時代というのはどんなふうだったんですか?

望月めぐみ
高校は普通科に進みました。公立のいわゆる進学校です。進路を考えた時、大学で演劇をやりたい気持ちはありました。でも演劇科に進むというのは、ちょっと違うなという思いがどこかにあって。じゃあわたしどうするんだって悩んだときに、絵に戻るんですね。絵を描くことはずっと好きだったので。

それで、美術教師の道を進もうと思いたち、教育大学の美術科に入学しました。その当時のわたしはまだ「作家になりたい」とはまったく思ってなかったので。

──なるほど。職業として美術に関わる道として、美術教師というところに落ち着いていったんですね。でも、そこから作家の道を歩むことになる。

望月めぐみ
教育大学の美術科に入ってバリバリ演劇をやっていた大学1年のときに、父が亡くなるんです。持病があったわけではなく事故に近いかたちでの急死でした。それがいちばん強烈な体験でしたね。大学に入ってすぐにそういうことが起きて。

本当に人はいつなにがどうなるかなんて、誰にもわからないんだな、っていう強烈な体験をしました。そのときに「今後、わたしの一生はわたしのいちばんやりたいことのために使う」って、そう決めたんです。

──お店はどうなったんですか?

望月めぐみ
お店は父が亡くなって1年後くらいに譲りました。当時わたしは10代で学生でしたし、母と話し合ってその時点で娘がお店を継ぐという可能性はなくなりました。

──お母さんと、ふたりっきりですよね。

望月めぐみ
そうなんですよ。

SHOWKO
お母さんも大変でしたよね。

望月めぐみ
そう。母がすごい人だった。

──母親ってすごいですね。それがひとつ、大きな区切りになったんですね。

望月めぐみ
そうですね。でもそれがターニングポイントだったと自分自身で気づいたのは、わりと2、3年前のことなんです。この年齢になって自分が歩いてきた道のりをふっと振り返ったときに「ああ、あれがきっかけだったんだなあ」っていうことにようやく気づけたという感じでした。

そうして、その父の死から1年後、ちょうどお店を譲ったのとほぼ同じタイミングですね、そのときに出会ったのが切り絵だったんです。

SHOWKO
わあ、そうだったんだね。

──お父さまの急死と稼業のお店の譲渡という人生の大きなターニングポイントで出会ったという切り絵の世界。具体的にはどういうきっかけで出会ったんですか?

望月めぐみ
そこでまた演劇と結びつくんですけど、大学で演劇部に所属していた当時、役者もやっていたんですけど同時に宣伝美術もやっていたんですね。それで友人が演った作品のポスターを作らせてもらったときに、なにか和のモチーフがいいんじゃないかということでいろいろ探してるうちに、たまたま借りた本のなかに切り絵の本がありました。

それを見て自分もちょっと切り絵をやってみようと思いたって、いざやってみたらハマったというか。「ああ、これこそがわたしの技法だ」っていうことを、すでに一作目で確信してしまいました。

それまで油絵や水彩や彫刻など、いろいろと試してきたなかで、初めて「あ、これだ!」っていう感覚に出会えた。それが切り絵だったんですね。

──その「これだ!」っていうのは、どういう感覚だったのでしょうか。

望月めぐみ
それはもう直感ですね。自分が表現したい絵の世界と切り絵がピタッとフィットした感じです。具体的には百人一首の世界観であったり浮世絵のプリントされた平面な表現ということなんですけど。

──確かにこれまで関心を持たれてきた維新派や源氏物語、たまの世界観と、日本的なフラットな絵画表現には、通底するなにかがある気はしますね。

望月めぐみ
そうなんです。あと、色の問題もあって。

SHOWKO
色の問題?

望月めぐみ
そう。じつは大学受験のときに色彩構成についての理論的な勉強をかなりみっちりやったんですね。ところがそれをやったことによって、わたしは色を「感覚的に」使うことができなくなってしまったんです。

──スポーツなんかでもありますね。たとえばバスケットボールで「この角度で腕を伸ばして、これだけの力で押し出せばゴールに入る」ということは理論的に分析すればわかるんですけど、頭でわかっちゃうと逆にゴールが入らなくなる現象があるっていう話は聞いたことがありますね。あれに近い感覚なんでしょうね。

望月めぐみ
まさにそれです!色というものの構造について論理的に学んだことで「この色の横にはこの色を置くとこういう効果が発生するから、つまり…」といちいち頭で考えるようになってしまったんですよ。それまで感覚で自然に使えていた色彩が自由に使えなくなった。以来、色を使うことが苦痛になってしまいました。

SHOWKO
苦しんだ?

望月めぐみ
そうね。ああ、わたしもう色を使って絵を描けないのかなあっていう。時間をかければ乗り越えられたのかもしれません。でもけっきょく、その問題を乗り越えることなく大学に入ってしまった。

SHOWKO
けっこうディープな話だよね。

望月めぐみ
だからこそそういうタイミングで色を用いないで作品がつくれる切り絵の表現と出会えたことは、ひとつ大きなポイントですね。切り絵は紙の色2色だけで成り立つので、ちょうどそれがたまたまフィットしたんだと思います。

SHOWKO
そうだね。でもすごい出会いだなあ。

──大学卒業後はすぐに切り絵作家として活動は始められるんですか?

望月めぐみ
いえ、切り絵と強烈な出会いをしたものの、いったんは一般企業への就職活動していました。平たく言ってしまえば生計を立てていくための仕事には就こうと考えていたんですね。ところがわたしたちの世代は、卒業のタイミングがちょうど就職氷河期だったんです。だから、なかなか就職が決まらなくて。

──今年の大学生も厳しそうですよね?

望月めぐみ
本当に!今は状況が突然変わってしまって。そのうちわたしは、ほんとうに好きではないことのためにこんなに苦労して、いったいなにやってるんだろうと思うようになって(笑)。

同じ苦労をするのであれば、一番好きなことに本気で取り組もうと思い直しました。それで「切り絵のイラストレーター」として、自分のポートフォリオをいくつかの出版社に送ったんです。

そうしたら最初に送った出版社に採用されて、もうこれでやって行こうっていう感じで、いま振り返ると、わりと流れに身を任せたようなところはあったと思います。

──それはどんな雑誌だったんですか?

望月めぐみ
集英社の“non-no”です。

──いきなり大メジャーですね(笑)。

望月めぐみ
それが自信になったのはありましたね。とりあえず10年は続けようって決めていました。

──いまの若い人の感覚だと10年ってけっこう長いなあと感じる人も多いと思うんですけど、そのあいだに挫折や不安はなかったですか?

望月めぐみ
わたしは10年をあんまり長いとは考えていなかった。それに動き出すと時間を忘れて無我夢中になっていくし、次々といろんなことが起きるものなのでね。そうした新しい状況にひとつひとつ対応していきながら、気がつけば時間が過ぎていたというのが実感ですね。

──それが22歳のころですから、2001年とか2002年くらいのことですよね?

望月めぐみ
そうです。



温新知故
#26
望月めぐみ×SHOWKO

文:
松島直哉

撮影:
福森クニヒロ

望月めぐみ HP:
http://www.mochime.com

SIONE HP:
http://sione.jp

温新知故
#26


父の死、訪れた転機

京都のアートやクリエイティブ活動の最新事情を訪ねてみると、その奥には必ず伝統という財産が豊かに広がっていたりする。
いわゆる「古きを訪ね新しきを知る」という視点からではなく、むしろその逆、新しいものの向こう側にこそ垣間見えてくる京都の先人たちの、技や知恵。

この対談シリーズでは、若い職人さんやアーティスト伝統文化の世界ではない人からの視点も交えた異色の対談集というかたちで京都の伝統文化に新しい光を当ててみたい。